与しつゝある生涯の残光なり。彼れの前世紀は、血の歴史なり、戦闘の歴史なり、波瀾多き歴史なり。彼れは屡々不忠不臣の名を受けたりき。彼れの一挙一動は常に探偵の報告資料たりき。彼れの党与は総て叛逆匪徒を以て目せられたりき。あらゆる迫害、あらゆる追窮は、高圧力に富める武断政府に依りて間断なく試みられたりき。豈唯だ此に止らむや。彼れは反対党の毒刄に傷けられて殆ど生命を喪はむとしたりき。嗚呼当年の彼れを以て之れを現時の彼れに比せば、殆ど喬木を出でて幽谷に遷りしが如し、誰れか其の変化の甚しきに驚かざるものあらむや。
然れども彼れは二十余年間国民的運動の首領たりしが為に、其の資望は尚ほ隠然として、重きを公私人の間に有せり。彼れが勢力の源泉たりし一大政党は、既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に属したれども、新首領の訓練未だ到らずして、往々旧首領の復活を希望するものあるのみならず、世には人の美徳を歎美するもの稀れにして、寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに、彼れ少しく動けば、揣摩臆測紛然として随ひ起る、自由党再興の風説の如き、即ち其の一なり。
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板垣の復活、自由党の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覚えざる虚聞なり。
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是れ彼れが記者を其の応接間に迎へて、微笑を帯びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友会支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に帰れり。其の紛擾に対して、自ら責任ある裁决を与へむが為には非ず、唯だ郷党の要望に応じて、情誼上の忠告を与へむが為に外ならざりき。彼れは一種の意見書を発表したりき。此の意見書には政治哲学の旨義を含蓄せる文字あれども、政党首領の宣言書《マニフエスト》と全く其の体様を異にしたる個人的立案なり。彼れ豈当世に野心あらむや。
其二 時代の事業
彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を続けたり。
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政治界は権勢、名誉、利禄及び人爵の中心点なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。独り社会事業に至ては、本来無報酬にして一も如上の欲望を※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]かしむるに足るものなし。是れ政治的退隠者たる板垣の為に好個の事業に非ずや。
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