烈なる攻撃を受けたりと雖も、後年日露戦争起るに及びて、宗教人種を異にする列国の同情を最後まで維持し得たるは、主として此の政略の賜なりと謂はざる可からず。要するに伯は新旗幟を霞ヶ関に樹てゝ帝国の外交を彰表し、新生命を外交機関に賦して外務省の性格を一変し、後の当局者をして其の率由する所以の大本を知らしむるに於て、晩年の心血を傾倒したりと謂ふべく、即ち今に於て伯の銅像の外務省構内に建設せらるゝを見るは、事と人と処と三者均しく宜しきを得て※[#白ゴマ、1−3−29]長へに霞ヶ関の紀念たるを失はざるべし。
然れども陸奥伯は外務省の陸奥伯に非ずして、日本の陸奥伯なり。大隈伯は早稲田大学の大隈伯に非ずして、日本の大隈伯なり。特に大隈伯の如きは、啻に日本の大隈伯たるのみならず、其の名声は漸次世界的音色を帯び来らむとせり。顧ふに陸奥伯を以て大隈伯に比すれば、其の人格に於て大小の品異なるあり、其の頭脳に於て広狭の質同じからざるありと雖も、共に藩閥以外の出身者にして、自己の手腕を以て自己の天地を開拓したるに於ては則ち一なり。而も両伯の出処進退には、自ら両様の意匠ありて好個の対照を為せり。大隈伯の出処進退を見るものは、先づ其の公生涯の前半期に於て、伯が内より政治を改革せしむとして全力を之れに用ひ、其の志の行はれ難きを悟るに及び、更に政治改革の手段を変じて、国民的運動の指導に其の後半期を費やしたるを認むべく、陸奥伯の出処進退を見るものは、伯が初め屡々外より政治改革の気運を促がさむとして成らず、一朝心機転換するや、自ら進むで政府の使用人となり、其の権変の才を竭くして内より藩閥を控制せむとしたるを認むべし。是を以て両伯は終始殆ど反対の側面に立てり。
大隈伯は藩閥の後援を有せずと雖も、維新の文勲は毫も藩閥者流の武勲に譲らざりしが故に、明治初年に於て既に枢要の位地を占め、藩閥をして勢ひ伯の勢力を敬重せざるを得ざらしめたりき。伯は急激なる民選議院建白者に誘はるゝには、其の思想余りに秩序的にして且つ実際的なりき。伯は前原一誠、江藤新平等の暴動に与みするには、其の識慮余りに進歩的にして且つ冷静なりき。伯は土佐派の空漠たる自由論を迎合するには、其の智見余りに経世的にして且つ老熟なりき。伯は馬上を以て天下を取りたる藩閥の、到底永く馬上を以て天下を治むる能はざるを知りたれば、時の政府の中心たる大久保利通の威
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