らしき政治的日本を建設せむが為に政党を組織したることゝ、学問の独立を謀らむが為に、官学に対抗すべき私学を興したること是れなり。板垣伯は亦政党を組織したるによりて、明治時代の一代表的人物となりき。福沢翁は亦曾て私学を興したるによりて、不朽の紀念を文化事業に遺したりき。今ま大隈伯の能く一人にして板垣伯及び福沢翁の為したるものを兼済したるを見るものは、誰れか伯を近世の偉人と称するに反対するものあらむや。且つ夫れ板垣伯は、始めて自由党を組織するに方てや、其の名望勢力実に一時を曠うするの概ありしも、年所を経るに従つて漸く尾大不掉の状を示し、終に殆ど国民の記憶より遠ざかりて、杳然聞ゆるなきの末路に立てり。之れを大隈伯が、久しく政権と近接せざるに拘らず、常に夫の終始順境を来往する伊藤山県両公と盛名を※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]うし、既に政党の総理を辞任したる後すらも、尚ほ且つ生気溌溂たる政治家たるを失はざるに比すれば、其の差果して奈何と為すや。是れ現在の大事実なり。何人も之を抹殺すべからず、又之れを顛倒するを得べからず。更に他の一大事実を注視せよ、是れ一層明白にして且つ永続性を有するものなり。大隈伯の創立したる早稲田大学の驚くべき発達是れなり。其の明治十五年東京専門学校の名を以て起るや、当時福沢翁の慶応義塾は校齢方に二十五年を重ねて基礎漸く固く所謂る三田の学風を鼓吹して海内を風靡し、隠然として私学の泰斗官学の敵国たりき。而も東京専門学校は、経営二十星霜にして、明治三十五年早稲田大学と改称するの域に達し、其の実力及び位地は、啻に慶応義塾と相対峙して毫も遜色なきのみならず、漸次準備の熟するを待つて理、医、農、工等の学科を増設し、以て完全なる大学の性質を具備するに至らむことを期せり。六千有余名の卒業生を出だしたる過去の成績、日々八千有余名の学生を出入せしむる現在の収容力、創立二十五年の祝典を壮にする一万余名の提灯行列、是れ豈福沢翁をして独り其の美を教育界に擅まにせしめざる厳然たる大事実に非ずや。たとひ大隈伯に政治上の成功なしとするも唯だ此の早稲田大学の繁栄以て能く伯の徳を後代に伝ふに足るべし。是に於てか銅像建設も決して無意義に非ずと謂ふべし。
 若し夫れ陸奥宗光伯は、未だ天寿を全うせずして十年前に病死したる人なり。若し伯をして尚ほ今日に健在せしめば、必らずや其の伝記
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