り[#「伯の頭腦は總合的にして個人的ならざればなり」に白三角傍点]。一言にして伯を評すれば、伯は靈魂ある新聞紙なり[#「伯は靈魂ある新聞紙なり」に丸傍点]。伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり[#「伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり」に白丸傍点]、官吏と代議士との感情を聯結せり[#「官吏と代議士との感情を聯結せり」に白丸傍点]、軍人と文學者との意見を聯結せり[#「軍人と文學者との意見を聯結せり」に白丸傍点]、銀行家も[#「銀行家も」に白丸傍点]、工業家も[#「工業家も」に白丸傍点]、地主も[#「地主も」に白丸傍点]、小作人も[#「小作人も」に白丸傍点]、若しくは相場師[#「若しくは相場師」に白丸傍点]、貿易家[#「貿易家」に白丸傍点]、鐵道屋[#「鐵道屋」に白丸傍点]、海運業者も[#「海運業者も」に白丸傍点]、皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ[#「皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ」に白丸傍点]、毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき[#「毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき」に白丸傍点]。要するに伯は[#「要するに伯は」に白丸傍点]社會各階級の思想感情を總合して之れに政治的著色を施し[#「社會各階級の思想感情を總合して之れに政治的著色を施し」に二重丸傍点]、以て其の獨占權を有せむとするの人なり[#「以て其の獨占權を有せむとするの人なり」に二重丸傍点]。
 世間或は伯の耳學を笑ふ。然れども伯の伯たる所以は、其の受納力大にして偏狹なる個人的意見なき處に在り[#「其の受納力大にして偏狹なる個人的意見なき處に在り」に白三角傍点]、其の社會の各階級と善く適合して、善く各種の意見を攝取し、又た善く之れを消化するの力は、之れを稱して一個の天才なりといふも可なり。
 故に伯は狹義に於ける政治家に非ずして[#「故に伯は狹義に於ける政治家に非ずして」に白丸傍点]、寧ろ大なる市民なり[#「寧ろ大なる市民なり」に白丸傍点]、日本人民の總代表者なり[#「日本人民の總代表者なり」に白丸傍点]。故に又た伯にして假りに政黨首領たることを罷むることありとするも[#「故に又た伯にして假りに政黨首領たることを罷むることありとするも」に白丸傍点]、其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし[#「其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし」に白丸傍点]。伊藤侯は日本帝國の代表者として久しく外人に知らる。而も侯は伯に比すれば稍々個人的にして、其の頭腦は獨自一己の圭角を有せり。侯は決して大隈伯の如く社會の各階級と適合し得るの性格を有せず。大隈伯は落々たる自由心胸《オープンハート》を有すれども、伊藤侯は快活なる間にも多少の保守的精神あり。大隈伯は好んで言論を公表し、而も之れを公表するに於て殆ど時と場所とを選まざるの傾あれども、伊藤侯は天賦の辯才あるに拘らず、之れを使用するに於て頗る謹愼なり。
 されば大隈伯は[#「されば大隈伯は」に白丸傍点]、其の生活に於ても[#「其の生活に於ても」に白丸傍点]、飽まで現在的社交的にして[#「飽まで現在的社交的にして」に白丸傍点]、一點山林の氣象なしと雖も[#「一點山林の氣象なしと雖も」に白丸傍点]、伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て[#「伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て」に白丸傍点]、稍々東洋賢人の面目あり[#「稍々東洋賢人の面目あり」に白丸傍点]。侯は一年中の多くの時間を大磯の閑居に費やし、公務の外帝都に出づること極めて少なく、俗客と酬接するよりも、寧ろ讀書に親しむの性癖あるを以て、必らずしも社交の中心たるを求めざるが如し。大隈伯は決して一日も此般の生活状態を忍ぶ能はざるなり。伯は早稻田に廣大なる庭園を有し、園中には無數の珍奇なる花卉を蓄へり。特に其温室は伯の最も誇りとする所にして、室内は四季常に爛漫たる美花を以て飾れり。伯は園藝道樂を最も高尚なるものとし、屡々人に向て、花を愛するものは善人なりとの格言を繰り返へして自ら喜ぶと雖も、伯の花を愛するは[#「伯の花を愛するは」に白三角傍点]、詩人の美神に※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]するが如くならず[#「詩人の美神に※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]するが如くならず」に白三角傍点]、又た聖者の自然を樂むが如くならずして[#「又た聖者の自然を樂むが如くならずして」に白三角傍点]、唯だ其の社交に色彩を添ゆるが爲に之れを愛するのみ[#「唯だ其の社交に色彩を添ゆるが爲に之れを愛するのみ」に白三角傍点]。若し早稻田の庭園にして一たび社交と隔離せば伯の園藝に對する趣味は、恐らくは彼れが如く濃厚ならざる可し。何となれば伯の園藝道樂は頗る共同的なればなり。故に早稻田の庭園は公開せり。且つ人は、未來の短かきを感ずれば感ずるほど、漸く靜止の生活状態に傾くものなり。然れども大隈伯は其の未來の短かきを感ずるに由りて[#「然れども大隈伯は其の未來の短かきを感ずるに由りて」に傍点]、却つて一層猛烈なる現在主義の信者と爲り[#「却つて一層猛烈なる現在主義の信者と爲り」に傍点]、勉めて其生涯をして掉尾の活動あらしめ[#「勉めて其生涯をして掉尾の活動あらしめ」に傍点]、以て賑やかなる晩年を送らむと欲せり[#「以て賑やかなる晩年を送らむと欲せり」に傍点]。故に伯の性格は[#「故に伯の性格は」に白丸傍点]、老て益々發揮し[#「老て益々發揮し」に白丸傍点]、他の元老政治家が[#「他の元老政治家が」に白丸傍点]、或は客を謝して隱棲し[#「或は客を謝して隱棲し」に白丸傍点]、或は美田を買ふて子孫の計を爲すの際に在りて[#「或は美田を買ふて子孫の計を爲すの際に在りて」に白丸傍点]、伯は其の門戸を開放して[#「伯は其の門戸を開放して」に白丸傍点]、社會の各階級と盛むに自由交通を行ひ[#「社會の各階級と盛むに自由交通を行ひ」に白丸傍点]、財を吝まず[#「財を吝まず」に白丸傍点]、勞を厭はずして[#「勞を厭はずして」に白丸傍点]、八面應酬の活動を繼續せり[#「八面應酬の活動を繼續せり」に白丸傍点]。見よ伯の門前は日々殆ど市を爲すに非ずや。何時にても三十人以上を饗するの食膳は準備しつゝありといふに非ずや。其毎年議會開會前後に於ける憲政本黨員の饗應のみにても、外務大臣の夜會に劣らざる莫大の費用を抛つ上に、或は觀菊の會といひ、或は早稻田大學の卒業式といひ、或は遭難紀念會といひ、孰れも毎年一定の期節に於て貴顯紳士を早稻田の庭園に招待するの慣例なれば、其の費用は亦少なからざるべし。此頃全國商業會議所聯合會の開會したるを機とし、盛宴を張て其の議員を饗應したる如き、亦甚だ勉めたりと謂ふ可し。或る好事者流あり、伯の生活の贅澤なる殆んど王侯を凌ぐの勢あるを見て、竊に財源を探究したるに、伯は遠く手を英國の倫敦市場に延ばして巧に銀塊相場に從事しつゝあるの事實を傳聞し、頗る其の大膽の財政規模に驚きたりとの説あり。惟ふに是れ或は齊東野人の説たるに過ぎざるべきも、伯の財政が世上の疑問となるを見るに就ても[#「伯の財政が世上の疑問となるを見るに就ても」に白丸傍点]、亦其の生活の如何に贅澤なるやを知るに足るべし[#「亦其の生活の如何に贅澤なるやを知るに足るべし」に白丸傍点]。
 伯は啻に門戸を開放して、善く客に接し、人を饗するのみならず、更に善く馬車を飛ばして公私の會合に出席せり。而して伯の往く所[#「伯の往く所」に傍点]、必らず一段の活氣ありて場屋に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]せり[#「必らず一段の活氣ありて場屋に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]せり」に傍点]。蓋し總べての雄辯家が皆失敗する場合に於ても[#「蓋し總べての雄辯家が皆失敗する場合に於ても」に傍点]、獨り伯は辯論演説に於て常に成功するを以てなり[#「獨り伯は辯論演説に於て常に成功するを以てなり」に傍点]。伯は沈默を守る能はざる人にして、曾て不言實行といへる流行語を冷笑して曰く、言語あるもの必らず實行家にあらずと雖も[#「言語あるもの必らず實行家にあらずと雖も」に白三角傍点]、實行家にして不言なるものあらず[#「實行家にして不言なるものあらず」に白三角傍点]。所謂る不言實行とは[#「所謂る不言實行とは」に白三角傍点]、意見もなく自信もなき人物の遁辭のみと[#「意見もなく自信もなき人物の遁辭のみと」に白三角傍点]。此の斷定の正當なるや否やは遽に判ず可からずと雖も、伯が言論を好むの性癖あるは、此の一語に依て之れを察すべし。
 從來伯は其の言論の餘りに多きが爲に、所謂不言實行を以て自ら任ずる政治家は、伯を稱して大言放論家と爲し、以て其の信用を傷けむとしたり。而かも伯は其の言論の力に依りて[#「而かも伯は其の言論の力に依りて」に白丸傍点]、反つて市民の崇拜を鍾めたり[#「反つて市民の崇拜を鍾めたり」に白丸傍点]。是れ他なし[#「是れ他なし」に白丸傍点]、伯は最も聰慧なる市民の思想を語るの豫言者なればなり[#「伯は最も聰慧なる市民の思想を語るの豫言者なればなり」に白丸傍点]。伯は好で意見を吐露すれども[#「伯は好で意見を吐露すれども」に白丸傍点]、敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして[#「敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして」に白丸傍点]、輿論の代言者なり[#「輿論の代言者なり」に白丸傍点]。伯は個人的意見の創造者に非ずして[#「伯は個人的意見の創造者に非ずして」に白丸傍点]、人民の聲の寫眞機なり[#「人民の聲の寫眞機なり」に白丸傍点]。是故に伯は精確の意義に於ける英雄に非ず。伯は偉大なる凡人なり。國民の運命を左右せむとする主我的人物に非ずして、國民の運命と倶に進退するの時代的人物なり。維新の三傑と稱せられたる西郷、木戸、大久保は、各々維新の大業を以て自己の獨力に依りて成したるものゝ如くに思惟したりしやも知る可からず。軍制を改革し、自治制度を制定したる山縣侯は、此等の事業を以て自己の創意に出でたりと思惟するも知る可からず。又た憲法を立案したる伊藤侯は、固より議會を開きたるを以て自己の功なりとすべく、露國を征伐する現内閣員は、興國の雄圖は我等の手に依て斷ぜられたりと思惟すべきは無論なり。然れども大隈伯は[#「然れども大隈伯は」に白丸傍点]、個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに[#「個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに」に白丸傍点]、維新の大業も[#「維新の大業も」に白丸傍点]、法制の改良制定も[#「法制の改良制定も」に白丸傍点]、議會の開設も[#「議會の開設も」に白丸傍点]、大陸戰爭も[#「大陸戰爭も」に白丸傍点]、其他既往三十餘年間に於ける日本の發達進歩は[#「其他既往三十餘年間に於ける日本の發達進歩は」に白丸傍点]、總べて國民的運動の結果なりと思惟せり[#「總べて國民的運動の結果なりと思惟せり」に白丸傍点]。
 唯だ伯は善く時代精神を攝取し、善く人民の希望と一致するの性格を有すと雖も、之れを行ふの權力と久しく遠ざかりたるを以て、政治上に於ては長く逆境の人たらざるを得ざりき、然れども伯は其の朝に在ると野に在るとを問はず[#「然れども伯は其の朝に在ると野に在るとを問はず」に傍点]、常に人民の代表者たるを失はざるがゆゑに[#「常に人民の代表者たるを失はざるがゆゑに」に傍点]、其の社會的境遇は甚だ幸福にして[#「其の社會的境遇は甚だ幸福にして」に傍点]、其の生涯は頗る快活なり[#「其の生涯は頗る快活なり」に傍点]、伯は不幸にして權力を有せざるがゆゑに[#「伯は不幸にして權力を有せざるがゆゑに」に傍点]、至尊に侍して獻替の任を盡くすに由なしと雖も[#「至尊に侍して獻替の任を盡くすに由なしと雖も」に傍点]、人民の代表者として[#「人民の代表者として」に傍点]、間接に國家に貢獻するの功は[#「間接に國家に貢獻するの功は」に傍点]、復た沒
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