一事の尾崎氏に信頼すべきものあるを了解せり。氏の清廉潔白なること是れなり。東京市政は、久しく不淨なる人物に依て攪亂せられたりき。是を以て他の資格に於て缺くる所あるも、清廉潔白の人格を有するものは東京市長として最も安心すべき人物なりと東京市民は思へり。尾崎氏にたとひ事務の能の甚だ稱すべきものなしとするも、其の清廉潔白なる美質は東京市民の毫も疑はざる所なり。但し市會及び市參事會の小野心家小陰謀家は、却つて此の清廉潔白を窮屈に感ずるものあるやも知れざれども、市民の輿望は此に歸せり。故に若し清廉潔白に於て尾崎氏の如く明白ならざる人物ありて市長の椅子を窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]すと假定せば、其の人如何に巧慧機敏の才子なりとも、東京市民は恐らく過去の市政史を囘顧して尾崎氏を助くるに傾かむ。大岡氏も亦清廉潔白の士君子なるべし。而も此の點に於ける尾崎氏の信用は大岡氏に比して優れり。是れ尾崎氏の位地尚ほ容易に動かざる所以か。
 斯くて尾崎氏の位地は當分安全なれども、實は脆弱なる安全なり。實力を以て支持したる安全に非ず。氏にして若し小心翼々唯だ過失なきを勉むるのみならば、氏の位地安全なるが爲に東京の市政に何の加ふる所あるを見ざらむ。元來氏は豁達にして腹心を披くの門戸開放家にも非ず。さりとて術數を蓄へ陰謀を成すの策士にも非ず、要するに氏は一種の獨善主義者にして名節を貴ぶの君子人なり。故に品性は極めて立派なれども、俗人を相手にして俗事を處理するに於ては、其の頭腦餘りに窮屈にして狷介なり。氏は熱心なる味方を作る能はず、又忠實なる子分を得る能はず。首領たるの器局は到底氏に於て求むべからず。故に氏に望む所は、思ひ切つて自己の所信を斷行し、何人の反對をも畏れずして獨り其の爲さむとする所を爲し、位地を賭して驀進するに在り。然らずして唯だ無爲無能の好々先生に終らば、氏の政治的生命は遠からずして絶えむ。位地の安全なるを以て自ら甘むぜば、氏の末路は知るべきのみ。(四十年二月)

   公爵 近衞篤麿

     近衞篤麿

      一代記の序言
 近衞篤麿公の名が世に出でたるは、漸く最近十年間の短日月のみ。而も彼れの春秋尚ほ高きを見るに於て、此短日月は僅かに彼れが公人歴史の初期たるに過ぎず※[#白ゴマ、1−3−29]彼れは多くの懸賞問題を未來に有せり[#「彼れは多くの懸賞問題を未來に有せり」に白丸傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]彼れは任重く道遠く[#「彼れは任重く道遠く」に白丸傍点]、其期する所のものは固より未來の成功に在らむ[#「其期する所のものは固より未來の成功に在らむ」に白丸傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]今日豈輙すく彼れの人物を評論するを得むや※[#白ゴマ、1−3−29]然れども彼れが初期の公人的歴史は[#「然れども彼れが初期の公人的歴史は」に傍点]、其善く彼れの人物性格を説明したる點に於て[#「其善く彼れの人物性格を説明したる點に於て」に傍点]、實に彼れの一代記の序言たる可き意義を有せり[#「實に彼れの一代記の序言たる可き意義を有せり」に傍点]、乃ち其一は彼れが統御の器ある[#「統御の器ある」に二重丸傍点]ことを説明し、其第二は彼れが公平忠忱の情に富める[#「公平忠忱の情に富める」に二重丸傍点]を説明し、其第三は彼れが自任自信の極めて高き[#「自任自信の極めて高き」に二重丸傍点]を説明し、其第四は彼れが謹愼にして責任を重むずる[#「謹愼にして責任を重むずる」に二重丸傍点]を説明し、其第五は彼れが主義定見を守るの固き[#「主義定見を守るの固き」に二重丸傍点]を説明せり※[#白ゴマ、1−3−29]然らば彼れの人物亦豈觀察し得可からざらむや。

      統御の器
 彼れが歐洲より歸るや、久しからずして帝國議會開會せられ、彼れは憲法より與へられたる特權に依りて貴族院の一席を占めたり※[#白ゴマ、1−3−29]當時貴族院には、或は學識を以て、或は勳功を以て、或は閲歴を以て、既に世に聞えたる先輩の士甚だ多くして、彼れは恰も大人群中の小兒の如き觀ありき※[#白ゴマ、1−3−29]則ち誰れか此小兒が大人を統御し得るの器を具へたるを知るものあらむや[#「大人を統御し得るの器を具へたるを知るものあらむや」に傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]此を以て時の貴族院議長伊藤博文が、偶々故ありて自ら事を觀る能はざるに際し、彼れを假議長として指名するや、滿場皆其意外に驚かざる莫く、中には冷笑を以て彼れを迎へたるものありしと雖も、彼は何の遲疑する所なくして議長の椅子に就きたり※[#白ゴマ、1−3−29]滿場は再び意外の感に打たれたりき[#「滿場は再び意外の感に打たれたりき」に傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]何となれば彼れの安詳沈着たる態度明敏果斷なる
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