−55]
 山縣相公閣下、我輩は閣下頃ろ辭任の意あると聞き、竊かに閣下が處决の時機を得たるを賀したりしに、今や又閣下が策士の言に動かされて忽ち留任の心を起したりといふを聞きては、我輩深く閣下の聰明頗る蔽はるゝ所あるを惜まずむばあらず、閣下に留任を勸告するものは自由黨の毫も畏る可からざると、伊藤侯の遽かに起つの意思なきとを以て閣下の聰明を蔽はむとすと雖も是れ姑息の計を進めて反つて閣下の過失を再三せしめむとするの妖言なり、閣下が既往三年間の歴史を觀るに閣下の過失は實に此の類の妖言に原本したるもの多し、閣下は元來謹厚愼密にして進退を苟もするの人に非ず、而も其の屬僚を有すること他の元勳よりも多數なるを以て、動もすれば佞嬖の小人に擁せられて不測の過失に陷ること少なきに非ず、今に於て尚ほ自ら悟らずむば、閣下恐らく恢復す可からざる汚名の下に沒了せむ。
 相公閣下、閣下は政治家として他の元勳に卓出したる技倆を有するに非ず、而も其の内閣を組織してより既に二會期の議會を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の點よりいへば、閣下は藩閥元勳中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み[#「夫れ賢者は名を惜み」に傍点]、哲人は身を保たむことを思ふ[#「哲人は身を保たむことを思ふ」に傍点]、閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも[#「閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも」に傍点]、賢哲の用意を爲すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず[#「賢哲の用意を爲すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず」に傍点]、閣下何ぞ之れを熟計せざる[#「閣下何ぞ之れを熟計せざる」に傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]且つ夫れ閣下は蒲柳の質、氣力亦頗る衰へたり、曾てサーベル政略を以て黨人に畏怖せしめたるもの今は黨人を迎合して僅に一時の苟安を謀るに汲々たり、顧みて内外の形勢を觀れば、國務益々多端にして、總て盤根錯節を斷つの利器を待つものたらざるなし、閣下たとひ愛國の至情自ら禁ずる能はざるものあるも閣下の健康到底之れに堪へざるを奈何せんや、想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ[#「想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ」に傍点]、之れを知つて尚ほ且つ自から斷ずる能はざるは[#「之れを知つて尚ほ且つ自から斷ずる能はざるは」に傍点]、唯だ屬僚に對する關係より脱離するを得ざるが爲めのみ[#「唯だ屬僚に對する關係より脱離するを得ざるが爲めのみ」に傍点]、さりながら閣下にしても苟も此般の情實に拘束して自ら斷ずる能はざれば[#「さりながら閣下にしても苟も此般の情實に拘束して自ら斷ずる能はざれば」に傍点]、閣下は終に屬僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ[#「閣下は終に屬僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ」に傍点]、乃ち我輩は閣下の名譽の爲めに[#「乃ち我輩は閣下の名譽の爲めに」に傍点]、閣下の晩節を保つが爲に[#「閣下の晩節を保つが爲に」に傍点]、將た局面を展開して政界を一新せむが爲めに茲に謹で閣下の辭職を勸告す[#「將た局面を展開して政界を一新せむが爲めに茲に謹で閣下の辭職を勸告す」に傍点]、閣下果して我輩の言を納るれば[#「閣下果して我輩の言を納るれば」に傍点]、是れ獨り閣下の利益のみならず[#「是れ獨り閣下の利益のみならず」に傍点]、又國家の利益なり[#「又國家の利益なり」に傍点]、閣下幸に之れを諒せよ[#「閣下幸に之れを諒せよ」に傍点]。(三十年四月)

     山縣公爵

 現代日本に於て最も秘密多き人物は[#「現代日本に於て最も秘密多き人物は」に白丸傍点]、恐らくは山縣公爵なるべし[#「恐らくは山縣公爵なるべし」に白丸傍点]。彼れの性格[#「彼れの性格」に白丸傍点]、伎倆[#「伎倆」に白丸傍点]、及び政策は[#「及び政策は」に白丸傍点]、伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に[#「伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に」に白丸傍点]、國民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外[#「國民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外」に白丸傍点]、復た彼れの眞價に就て何等の知る所なきものに似たり[#「復た彼れの眞價に就て何等の知る所なきものに似たり」に白丸傍点]、例へば世人は彼を稱して最も頑固なる保守主義の代表者と爲すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政黨内閣制に反對する政治家と爲すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政黨内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰險といひ、或は彼を壓制家といふも、其の批判は果して事實を根據としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの眞價の知られざる處は[#「然れど
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