れ少しく動けば」に傍点]、揣摩臆測紛然として隨ひ起る[#「揣摩臆測紛然として隨ひ起る」に傍点]、自由黨再興の風説の如き[#「自由黨再興の風説の如き」に傍点]、即ち其の一なり[#「即ち其の一なり」に傍点]。
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板垣の復活、自由黨の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覺えざる虚聞なり。
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是れ彼れが記者を其の應接間に迎へて、微笑を帶びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友會支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に歸れり。其の紛擾に對して、自ら責任ある裁决を與へむが爲には非ず、唯だ郷黨の要望に應じて、情誼上の忠告を與へむが爲に外ならざりき。彼れは一種の意見書を發表したりき。此の意見書には政治哲學の旨義を含蓄せる文字あれども、政黨首領の宣言書《マニフエスト》と全く其の體樣を異にしたる個人的立案なり。彼れ豈當世に野心あらむや。

      其二 時代の事業
 彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を續けたり。
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政治界は權勢、名譽、利祿及び人爵の中心點なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。獨り社會事業に至ては、本來無報酬にして一も如上の欲望を※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]かしむるに足るものなし。是れ政治的退隱者たる板垣の爲に好個の事業に非ずや。
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 彼れは斯く語りつゝ、眞摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は[#「三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は」に白丸傍点]、今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども[#「今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども」に白丸傍点]、其の額際より頬の邊りを繞りて[#「其の額際より頬の邊りを繞りて」に白丸傍点]、蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は[#「蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は」に白丸傍点]、深刻にして精苦なりし閲歴の默示として[#「深刻にして精苦なりし閲歴の默示として」に白丸傍点]、頗る記者の同情を刺戟したりき[#「頗る記者の同情を刺戟したりき」に白丸傍点]。村夫子らしき質朴の風采にも[#「村夫子らしき質朴の風采にも」に白丸傍点]、流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く[#「流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く」に白丸傍点]、純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は[#「純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は」に白丸傍点]、奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり[#「奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり」に白丸傍点]。凡そ人物の精力は[#「凡そ人物の精力は」に傍点]、大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり[#「大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり」に傍点]。明治の時代を見るに、維新政府の建設より國會開設に至るまでを第一期と爲す可く、國會開設より憲政黨内閣の組織に至るまでを第二期と爲す可く、第一期の時代事業は、專制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、國民に參政權を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、歐洲に在ては、之れを仕遂ぐるが爲に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と與に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、國會開設を豫約し給へる詔勅の煥發あり、二十二年には國民歡呼の間に憲法發布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議會は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり[#「彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり」に二重丸傍点]。彼れは他の如何なる政治家よりも[#「彼れは他の如何なる政治家よりも」に二重丸傍点]、此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは[#「此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは」に二重丸傍点]、爭ふ可からざる事實なり[#「爭ふ可からざる事實なり」に二重丸傍点]。伊藤侯は憲法立案者の名譽を獨擅し得可し、然れども此の名譽は、板垣伯が國民的運動の首領として根氣よく國會論を繼續したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奧伯の献策を納れて、彼れの率ゐたる舊自由黨と提携せむとするや、先づ彼れと會合し、徐ろに説て曰く、足下は國會開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を濟すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も[#「是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も」に傍点]、事實は之れを眞理として承認せざる可からず[#「事實は之れを眞理として承認せざる可からず」に傍点]。彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可か
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