群小に非ず、雜輩に非ず、大臣の無能に非ずして、皇帝の人格に在り。韓國問題は政治上に於ては既に解決せられたりと雖も、其の禍源は猶ほ依然として皇帝の人格に存す。苟も韓國保護の實効を奏せんとするに於ては、時間は必らず最後の斷案を皇帝の人格に下だすに至らむ[#「時間は必らず最後の斷案を皇帝の人格に下だすに至らむ」に白三角傍点]。要するに伊藤侯の成功の遲速は[#「要するに伊藤侯の成功の遲速は」に白三角傍点]、此の時間の到來の遲速に在りと認むべきのみ[#「此の時間の到來の遲速に在りと認むべきのみ」に白三角傍点]。(三十九年八月)

     伊藤侯、クローマー、及びラネツサン

 現代に於て、保護國の統治者として最も成功したる人を問はば、第一に英國のクローマー男を指名し、次に佛國のラネツサン氏を以て答ふるもの多かるべし。クローマー男の埃及に於ける位地は、僅に英國總領事兼外交事務官たるに過ぎざりき。又英國の埃及に對する保護權は、公然法律を以て設定せられたるにはあらざりき。而もクローマー男は二十餘年間の拮据經營によりて、英國の埃及保護を既成事實として列國に承認せしめたりき。佛國の殖民政策は大抵失敗の歴史を有すれども、比較的効果を擧げつゝあるものは、印度支那に於ける保護政治なりとす。而して其の功勞は主として之をラネツサン氏に歸せざるべからず。我が伊藤統監を以て此の二人に比するは、未だ其の時機を得たるものに非ずと雖も、侯が日本に於て最初の保護國統治者たる名譽を得たると共に、其の韓國に施設する所は、事の大小を問はず、均しく内外の注目を集中すること、恐らくはクローマー男にも將たラネツサンにも過ぐるものあるべし。况むや侯は政治家としての聲望固より夐に此の二人の上に出づるをや。
 クローマー男は模範英人ともいふべき實行家にして、其の精敏堅實なる事務的能力は、埃及に於ける諸般の施設に顯はれたる成績能く是を證明せり。彼は高遠なる理想を以て埃及を指導するよりも、直に手を眼前の行政事務に下だして、實際上より之れを改良するの得策なるを知りて、先づ灌漑工事を興して水利を治めたりき。是れ埃及の唯一財源は耕地の收穫に在るが故に、治水を以て財政整理の前提と爲さむとするに外ならざりき。此成算は果して誤らずして財政漸く整理の緒に就き、公債を償還し徭役を全廢し、窮民地方の地租十分の三を輕減したるも猶ほ豫算に剩餘を見たりき。尋で兵制、獄制、地方行政及び司法制度の整改理革一として成功せざるなかりき。其の間撤兵問題、蘇丹事件等ありしも、彼は英京政府を助けて著々之れを解決し、終に埃及に於ける英國の保護權を確保して最早動かすべからざるものならしめたり。
 佛國が安南に對して保護關係を生じたるより既に百餘年を經過したりき、而も紛亂相繼ぎて、保護政略容易に實効を擧ぐる能はざりしが、千八百八十六年ラネツサン氏は議會の委任を受けて安南地方を巡視し、深く其の國情を調査して、既徃に於ける佛國殖民政策の弊害を洞察し、歸來一書を著はして大に當局者を啓發する所あらしめ、終に自ら進みて印度支那總督となり、頗る安南保護の組織を改めたり。彼は大統領より附與せられたる廣濶なる全權によりて東京と交趾とを直轄し、安南及び東埔塞の統監を廢し、商高理事官をして印度支那總督の監督の下に保護事務を行はしむることゝなせり。彼は深く安南王の信任する所となりしが、千八百八十四年罷められて國に歸へるに及で、總督制度は稍々挫折したりと稱せらる。
 伊藤侯が今囘締結したる日韓協約は、列國の承認せる既成事實を成文に章明したるに過ぎずして、是れ位の措置は侯に在ては寧ろ牛刀割※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の感あらむ。然れども余は侯に望むに佛國流の殖民政治家を以てせずして、虚名を棄てゝ實績を收めたるクローマーを以てせむとするが故に、侯が韓國統治者としての事業は、更に大に將來に規畫する所多かるべきを思ふ。協約の締結は僅に保護事業の豫備たらむのみ。(四十年九月)

     立憲史上の伊藤公

 伊藤公は新日本の建設者として、總ての史的事業に關係し、且つ他の何人よりも大猷參畫の功勞多き人なり。若し公の働らきたる部分の一つにても、完全に仕遂ぐるものあらば、彼は亦明治時代の一名士たる價値を得るに足るべし。公の政治生涯は多面にして而も面々華麗なり。燦然として悉く人目を集むるものにあらざるはなし。凡そ政治家の功名心を飽かすべき最好の機會は、殆ど一として公の手に觸れざることなく、是れと同時に其の政略及び行動は時として物議の中心たることありと雖も、終始善く皇上の御信任を全うして頭等元勳の待遇を受けたり。後世より公を見ば恐らくは維新の三傑よりも一層偉大なる人物なりと信ぜらるべし。
 然れども公が新日本建設者の一人として優勝特絶の地歩を占むる所以は[#
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