こびを思い出して語った。
「でも、いよいよ退院となっても、私は兄の家へは帰れませんでしたの。アパートの一室を借りてくれてまだすっかり伝染らないようになるまでは、そこで暮らせと云われましたの」
ひとりのアパート生活では、時々二人の嫂たちが代る代るに来て、二軒で分担している物入りの意外に嵩むことをきかされていたという。
「それで私、今年の春半ばにお母さんが恋しくなって故郷へ帰ってみましたの。母は私が前よりも肥って丈夫そうになってましたから、たいへんよろこんで、私も病気をかくしていた甲斐があったと思いましたの。でも母の方はひどく弱っていて、長い風邪がまだ癒らないと云ってねたり起きたりしていました。病気中は私が死んだ夢を見たりして、夜中に一人きりの広い家の中で、お念仏申していたなど云いますの。私は心の中で、いくら病気はかくしても心は通うものかと、ひとりで気味わるいくらいでしたわ。その時私は母の看病に働いたり、故郷へ帰ったうれしさで友達などとも誘い合って、病みあがりの身も忘れて山を歩いたりしましたの」
話がこうして今年の最近にまで亘ってきた時には、とよ子はまた激しく泣いた。今度の涙は最も激しくてしばらくは話もつづけられなかった。
私は十日あまりの間に、ぽつぽつきいてきた話であったが、この日のかの女の涙には思わず語らせる自分がおしとどめても、その昂奮を避けさせねばいけないと思った。私は話させてわるかったと思い、もうそのお話やめましょうと何度も云った。
けれどとよ子は、あどけない心に刻まれた悲しみは、吐き出さずにいられない様子で、涙のなかで云った。
「母は私が山歩きして帰った日にとつぜん死にましたの。脳溢血という病いで」
現在坂上とよ子は十九歳で、母との死別の悲しみからもまだ二か月とは経っていないものだった。兄たちの家族や身寄りがあつまって、四十九日の法事をすましたあとは故郷の家は結局空家となり、それと同時にとよ子の病気の再発が襲っていた。
「東京の長兄の家へ改めて身をおちつけるまでは、それでもまだ再発とはきまりませんでしたの。私は何や彼や今まで私たちのことで物入りが嵩んだと云われますので、せめて仕立物でもとってお恩報じをしようと思って、日の暮れるのも惜しんで針を動かしましたの。すると嫂たちが方々から仕事をあつめてきて、私の膝もとには山のように縫物が重ねてあります。一日に袷を三枚仕上げた時には、電灯の下の眼も霞んだことがありましたわ」
これであらかたの話の種も終ったのであったが、私は新らしくとよ子を見直す思いがした。この額の清い瑞々しい面をした娘が、これほどの悲しみや苦労を内に湛えていたとは、ふしぎなほどであった。
無口で返事がわるいと、嫂たちにおこられて来たそうだけれど、無理な仕事の疲れや、再発の兆《きざし》で物憂いこともあったにちがいなかった。
病室には暑い日がやって来た。いったん歩行がつきはじめてからは、私はテレスの風の吹き通う藤懸の下に出ずにはいられなかった。八月のはじめにかかってからは、草藪の繁りもひどかった。白花を点々と咲かせた箒草や、鋸のような葉を尖がらせた薊や、いろいろのいらくさや、きれいな野菊やひる顔や、水引草や、一本の高い茎に細長い葉だけを瓶洗いのブラシみたいに飾った途方もないつまらぬ草や、そういう無数の繁みに、さらに匍いまわる、いろいろな蔓草が、繁りを締めつけて、日の目も射さぬ草の丘をあちこちに盛りあげていた。
雑草の可憐な花を愛した私は、また雑草のなかにいかに本物の草に似せたものがあるかにも、今さらおどろいていた。ある夕方勤務を了えた看護婦さんがテレスにいた私に、鉄柵ごしに一抱え[#底本は「一抱へ」、32−10]の野草を摘んで渡してくれた。
「なかなか、野趣でしょ」と看護婦さんが云うので、私も親切に答えて早速花瓶に挿しましょうと云った。
野草を揃えなおしてみると、萩に似てそうでないもの、麦に似てそうでないもの、蘭や碗豆や水引草に似て悉くそうでないもの、それらのいかにも似方に努めている野草の姿には、また別の憐れさもあった。
試みに私は手もとのうすい植物略図を手にとってみると、猫萩というのがあり、イヌ麦というのがあり、じゃのひげ、鴉の豌豆、おにどころ、などというのが目に入り、今私の見ている雑草がそれらしくもあった。
病床のひまで私はこれを、矢張り自然の意志の中に生きる雑草のはかない努力と思って、何となく身につまされた。不完全なものの悲しみはこういう世界にもあって、本性がどうしても足らないのであった。
だが野草の中にも純粋なものがあった。露草、野菊、蚊帳つり草、風ぐさなどは私の眼にはささやかでも、本物に咲く草花と一緒に好もしかった。で、私はそれらをえり分けて花瓶に挿した。
暑さが募ってきてからは
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