、とよ子は手まわりの用事にもけだるさを見せていたが、たずねてみると、腸の工合がわるくなって困ってるとのことだった。
もう十日ほどもとよ子の許へは誰れも来なかったので、私が代って検温に来た看護婦の主任さんに、とよ子さんの苦痛を伝えてあげた。主任さんは
「そういう変化は一日でも二日でも黙っていては困りますよ。投薬の関係もありますからね」ととよ子に注意した。
かの女はあとでなんとなく寂しい顔つきを見せて、静かに臥っていた。
「もうだいぶお家から見えませんね」
「ええ、私も毎日毎日私の窓から見える野道の方を見詰めていますの、長兄の白麻の洋服はどんな遠くからでも見わけられますもの」
「もう、そう云っている間に来られるかもしれませんよ」
「でもたいてい、あなたのおじさまの姿が歩いてこられるんですもの」
「もう見分けられますの」
「ええ豆粒みたい遠くからでも。おじさまはご親切ね、私の掌の傷をあんなに心配したりして」
坂上とよ子が元気がなくなってからは、私も妙にさびしかった。テレスへ出てもとよちゃんもいらっしゃいと呼べないので、あたりに出ている人たちとよもやまの話をした。大体にこの病棟には重い人がいるので、喉頭でどうしても臥ていられないと云うような、非常に重態の一人のほかにはあまり変った顔ぶれもなかった。
中で仕合せと回復に向っている、二三の青年や、一人の若い女性などがテレスの常連というわけであった。
「この草っぱらと畑の総面積は、どのくらいあると思う」と、母親の附添で仕合せな、せいたか[#底本は「せいだか」、34−9]坊やの通称のある瀬田青年が口をきると、
「まず五千坪だね」と、口を尖らせるので蛸さんと綽名のある料亭の一人息子が、さっそく見積りをつけた。
「冗談じゃない。では山野さんは?」
私に問いを向けられると、私の眼が殆ど数字で現わせるほどの、どんな見当もついていないのに、全然まごついて了った。
「どうも見当がつきませんよ」
「では双葉さんは」
顔色が明るいほど白いので、お月夜さんと呼ばれていた双葉さんは
「二万坪あまり、間違いなし」と云った。
背高ぼうやは背を反らして、
「ほう、僕なら一万坪見当だ。いったい」と蛸の肩を突衝いて、よろけるのをまたぐいと引き寄せて
「君の眼はどだい節穴だよ」
「そうかい」
「ちと確りしろ。ところで双葉さんは大袈裟だなァ、ちとヒステリカルじゃ」
答えなかった私は這々のさまで、自分の室へひきあげた。およそ雑談はこういう種類の罪のないもので、正しい見当は誰れにも判らないくせに、節穴やヒステリカルでもおさまっていた。
とよ子がベッドで外の話声を聴いて、蛸さんて実に名の通りだなどと、おかしげに云った。
「私が窓から見ましたら、口を尖らせる時には額に三本横筋が寄りましたの、このテレスを通る時にはいつでも私を覗いていたりして、おかしなひと」
おどろいたことにはその翌朝廊下を通る蛸さんを見ると、額に大きな絆創膏を貼っていた。皺伸ばしを説明しているのをきいても、私はあまり驚けなかった。病院というところは、誰れが熱を出した、誰れが血痰したというような細事をまで声なき声のように疾風迅雷的に耳から耳に伝わるものであった。とよ子の声がいやしくも他人に係わっていた限り、反響を起したのもふしぎはなかった。
病院内の交際などで病人たちが慰め合ってる気風もとよ子に次第にわかりはじめ、時折りは長兄の見舞を待ちわびる気持も、周囲の空気のなかに紛[#底本は「粉」、35−17]らかされていた。
何かの歌謡曲を澄んだ丸味のある声で唱っていたりして、腹痛の柔らいでいる時には、何か思い出している様子も見せた。
「山野さん、私ね、まだ男のかたと一度も交際してみたことありませんでしたの。私の故郷の方ではお盆のころ山の方へ若いひとたちがあつまって、笛を吹いたり踊ったりすることになってましたけれど、私は一度も行きませんでしたの」
私はなんと答えようもなかった。とよ子も何処かで短かい生涯を予感してでもいるのであろうか、若い娘がこういう心の寂しさまで私に開いてみせてくれたことが、あまりにも私の心を打ち、と云って不吉な予感など持つ自分が忌まわしくあった。
「今にとよ子さんも達者になれば、いくらでもお友達はできますよ」
「そうでしょうか」
あどけない眼つきで、来る日を夢みる様子でもあった。
十五日ほど指折り数えていたあとで、待ちわびていた長兄の代りに、嫂がふいに病室の扉を引いてはいってきた。
野径を油断なく見詰めていたはずのとよ子も、瞬間ギョッ[#底本は「ギョツ」、36−13]としたように嫂の近づく[#底本は「近ずく」、36−13]姿に眼を向けた。
色の小黒い、眼鼻立ちも見分けられぬほど固く凝り結んだ顔つきであった。人間がひとつの不快
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