な思いを長い間積み重ねて、突然その思いの現われる場所にふりむいた顔つきがこれに似ていた。世間にいくらでもつきあたる顔つきでもあった。
 とよ子の嫂は塑像のように、肩も、垂れた両腕も動かさずに、爪先だけでそっととよ子の方へ歩み寄って行った。
 低い銹びた声がすぐ何事か云いはじめた。
「今朝病院から手紙が来てね、とよちゃんに附添さんが要ると云って来たんだが、いったいどうしたと云うの、え?」
 私のベッドの方へ洩れてくる声は、手にとるように近かった。嫂の声には義妹の容態の悪化を案じるよりも、病院の申出に至らしめたとよ子の現在を詰問する口ぶりの方が、あらわであった。
 とよ子は口ごもって、何も答えられずにいた。
「え? どうしたのさ。病院に入ってこうしてお医者や看護婦さんにお世話になっていて、何が不足? いったい附添さんが要るほど悪くなったと云うの」
「いいえ、私は知らないの。病院の方で定めてそう通知したものとみえるわ」
「ふん」嫂はしばらく声をとぎらせた。
 とよ子の啜り泣く声がきこえはじめた。私は息をのんだが、この短かい沈黙の間に、どれほど多くの二人の感情が揉み合ったかは、察せずにはいられなかった。
 嫂はまた低い声ではじめた。
「あんたも家《うち》の事情は知っているだろうね、長兄さんも銀行は寸暇もなく忙しいし、それに事変が始ったのでいつなんどき召集されないとも判らないんだよ。たいていのことは我慢できないの」
 答える代りにとよ子の啜り泣きは、昂まった。
「なぜ黙っているの。相変らず強情ね。それなら帰りますよ」
「ごめんなさい嫂さん。矢張り私は今苦しいんだもの」
「え? 苦しいんだって。そんなに動けなくなっているの」
「動くとせつないの。だから病院と相談してから帰って下さいな」
 また今度は長い沈黙がつづいた。嫂の眼はどこに注がれているのであろうか、とよ子の啜り泣きは途切れ、ややして再び声をあげるまでに激しくせき上げていた。
「泣いてるから駄目!」と、しばらくして嫂の肝癪の声が低く迸った。「もう帰るよ。畑の道に子供も待たせているし、それに今日は私は様子を見に来たんだからね。改めて次兄《ちいにい》さんとも相談して、それから病院とも話合ってみようよ。いいね」
「………」
「いずれ次兄さんかおたきさんにもこっちへ来てもらうから、それまで待っとくれ、ね? 待つでしょう?」
 そう云うと、とよ子の泣き声をあとにして来る時と同じ塑像の動いて行く足どりで、私のベッドの傍らをもすぎ、扉の外へ姿を消して行った。
 とよ子の病床も、こういう背景に置かれてあったと、私はあとで感じを新らたにした。私自身の入院に至るまでの苦境、私の亡児の忍耐多かった短かい生涯、溯れば私の心の傷む思いもそれからそれへと際限がなかった。
 心を傷めることの少ない病床は、同じ病床でも遙かに倖せであった。およそ肉体の病気に拍車をかけるものは、精神の苦痛にまさるものはなかった。とよ子の啜り泣きは、かの女の心への今が今の噛みくだかれた虐待に相違なく、私はこの危うさをまず救いたいのでいっぱいとなった。
「とよちゃん、もう泣くの止しましょう。心をきつく持って、何んでも用事は看護婦さんにお頼みなさいね。たべたい物などは、うちのおじさまにも云えば買ってきてくれますし」
 こう急いで宥めると、とよ子は思いのほかきれいに涙を収めてくれた。
 私たちの室とちがって、隣室のせいたか坊やのベッドのまわりには、いつも陽気な笑声があった。母一人子一人と語るその老いた母が、戸締りの自宅をあとにして、一人息子の附添いに通い、歩き廻ってるものを捕えて、皮膚の摩擦まで行ってやっていた。
 息子は坊やと云われるのがいたく不足で、これでも拓殖大学生なんだぞ、病気をしないでみろ、今ごろはヒリッピンあたりで活躍しているんだぞと啖呵をきった。それだのに健康帯という腹部をがっちりと締めあげる用器を、水筒の紐かなぞのように肩にかけたりしている時には、母親に見つけられちゃんと用器に使命を果させるように命ぜられていた。
 見かけた人が笑って行くと、何しろ十二円もしたんだからなと瀬田青年は頭を掻いた。母も涙を溜めて笑い、この世話のかゝる息子にこの世に残された満足のすべてを感じている様子をその老いた全身で沁々と表わしていた。
「私たち母子は可哀想なものですよ。あれに若しものことでもあれば、私は生きてる空はありません」と、その老いた母は私にも語っていた。息子が早く癒って兵隊に行くんだと云えば、無理もない、人なみにお前もなりたいであろうと、母はそういう時にはひとり残される寂しさは曖にも出さなかった。
 ある時は態々私のベッドにも立寄って、その母は家主の白痴の老嬢が縁から転落して脳震蕩を発して急死したことを告げた。私はうっかりしていて、何ん
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