のために見ず識らずの人の災難を聴かされるのかはじめは判らなかったが、一人暮らしの不安というものを、話したいためであったことが次ぎの母の話でのみ込めてきた。
「そういう頓死を見ましたんで、私もいよいよ用意が肝腎と思いましたよ。前々から何時どういうことがあっても、息子に迷惑はかけとうない思いまして、それだけの始末はつけてあるつもりでしたが、今日という今日は眼に見ましたんで、ほんとうに腹にこたえました」
「お家で一人になった時はお心細いでしょうね」私も心から、この母の気持を聴きとった。
 そうかと思えばある日は非常に気の利いた和服姿の美しい娘を伴って来たりした。そこで忽ち病院内にはせいたか坊やの未来の花嫁が現われたという噂がひろまった。
「ほんまにあの娘《こ》は息子さえ快くなれば、うちに来てもらおう思うております。そうなればもう私は何思いのこすこともない、楽々な身になります。安心して息子のいいように、ああせい、こうせいと云うなりに従うて、何時なりと安らかに逝けます」
 瀬田青年の隣りには、新らしく箱根山と綽名された青年がいて、エスサマ・エスサマ、エッコラサと、懸声であたりを笑わせ、その実回復の切ない希いを、長い闘病の果て戯化せずにいられないような悲しみを私などには思わせていた。暑い盛りのこの頃では、向う鉢巻で寝衣を胴なかだけにまといつけ、蚊脛を出して臥っているので、まあ雲助みたい、とある看護婦に云われ、それが忽ち箱根山の綽名にまで転化されて行ったものだった。
 病人に綽名は一種の親しみの呼称で、そのまた適切な発見には感心されるものも尠くなかった。私自身も恐らく何らかの象徴で呼ばれていたにちがいないが、ふしぎと病の身にはまだ伝わらなかった。だがお隣の坂上とよ子には既に別嬪[#底本は「別婿」、41−1]さんという綽名がつけられていた。多分蛸さんの発言かとも思うが、これには私は全然感心できなかった。それにはじめの元気とちがい、このごろの容態の思わしくないとよ子では、こういう浮かれた綽名には最早誰れも声を潜めねばならなかった。
 いつしかとよ子は厠にも通わなくなり、掌の痛みも増してきていた。回診の折り院長は掌から手首にまでも及んだ焦色を見て首を傾け、薬湯につけてあとを繃帯することを看護婦に命じた。
「このかたには附添いはないのかね」、院長は誰れへともなく呟いて置いて、別の室の方へ一行を従え廻って行った。
 もうどうしても附添婦は必要であった。病院からは再度の通知が自宅へ発せられた。
 中一日隔てて今度訪ねてきたのは、私のはじめて見る次兄という人らしかった。長兄の言葉少い温厚な人柄ともちがって、鼠色の上等の洋服姿で丈も少し低く気短からしく慌てた足どりで、はいって来た。
 もう日暮れに迫り、まだ電気はつかなかったが、かわたれ闇のもの悲しいひと時であった。とよ子は繃帯の手首を布団の上に投げ出し、憔れた瞼をうとうとと閉じていた。そこへ果物包みらしいものを携げて近づいて行った次兄は、ただならぬ妹の寝がおを見るや、どういうものかまた果物包みを前方に差し出すように吊して、何ものにも触れぬよう通り路の中間をよろけるように歩いて、外へ走り出て行った。
 再び引き返して来た次兄の手にはもう何もなかった。
「とよ子」彼れは高い声で妹の眠りを呼びさました。
 眼を開いたとよ子は次兄を見ると、うれしそうな笑顔を見せた。けれどその笑がおもすぐと病苦のなかへ消え失せて、ただ無言の眼もとだけが次兄を迎えていた。
「お前はまあ」と次兄はつくづく妹を見ながら、大きな声で云いはじめた。「そんなになっては、もういろいろ食べられもしないだろう。あれほど気をつけよ、つけよと云いきかしていたのに、山歩きなんかしてさ。あんな仕立物なんてものでも、次兄さんは止せ止せと云ってとめていたろう。無茶な真似ばかりして、またこんなになって了って、それでは情けないではないか」
 こう一気に云うのを、矢張りとよ子は無言できいている様子だった。私は少々おどろいていた。附添婦を頼む用件で来たものと思われるのに、病妹をつかまえて意見をはじめているのは腑に落ちなかった。
 すぐ眼の前の相手に聴かせるには高すぎる声で、次兄はまだいくらでも云いつづけて行った。
「この前はじめてお前が病気を出した時、次兄さんがどんなに心配したかおぼえているだろうね。六円五十銭もするソマトーゼを服ませたり、一切五銭もする鯛のさしみをたべさせたり、お前だって忘れはすまい。円座が欲しいと云えばそれも買い、良い布団だってこの次兄さんの方で受持って作ってやったろう。どんな物入りだって構わずに、何んでもしてやったではないか。それだのになんてまあ不養生したもんだ。こんなに悪くなっては情けないではないか」
「………」
「お前が丈夫になって、いい娘に
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