なってくれたと思って、あの頃は次兄さんは実にうれしかった。だからアパートの費用だってどんなに出し甲斐があったか知れない。癒ってくれたればこそのたのしみであったというものだ」
電灯がパッと点いた。
とよ子の方からは、一向啜り泣きらしきものも起きてはこなかった。こんなに勘定だかいことを云ってきかせる次兄にも、肉身の温情というものは通っていたものか。いやそうでも思わなければ、嫂に遇うた場合の時のように、とよ子の泣き出さぬ気持は解けなかった。
ふと次兄は私のベッドの方へ、踵をかえして近づいて来た。
「いやどうもいろいろお世話になります。あの娘の病気以来、故郷の母は死ぬやら、私どもも実に不幸つづきで……」
「お察しいたします」私も一礼した。
「何しろ兄なぞは故郷を出てから、しばらくはあの娘の生れたことも知らなかったくらいで、私なぞもごく幼さい時から別れていましたんで、妻《さい》なぞは、あの娘が母と一緒に上京してきた時になって、はじめてこんな妹があったのかと、驚いたくらいでしてね……」
「折角あんなにおおきくおなりになったお妹さんでしたに御病気なすって、ほんとにお察しいたします」
「これからというたのしみもありましたがなア」
次兄は仰向いて嘆息した。
私はどういうものか自分の方からは何も云い出せなかった。とよ子に附添婦の必要なこと、切端つまった際であることなども、勿論云い添える気持など出て来なかった。それよりも、とよ子に間近いベッドにいる自分に、求めずしていろいろの事情が既に耳に伝わっていたことや、殊に今この室の間近くならんだ二つのベッドの様子を目撃した上は、一層ひとぎきというものをかれが、意に止めていることを私は見てとらずにいなかった。そう思えば先刻から高い大きな声で、妹に尽して来た数々の事柄をならべ立てていたのにも、頷けるものがあるように思われた。
好い人なんだが、と私は次兄のおちつかない眼つきを見て思った。どうして私に苦境を了解させ、尤もと思われたいかを気にしているさまが判ってくるにつけ、そのことに努める一方で、それだけ、かれの気の済まなさも昂じているであろうということも、私には察せられずにいなかった。
私が黙っていると、次兄はまた眼をおちつかなく動かして
「何分よろしくお願いします。私も只今重要な技術に携っていまして、人を督励しているような立場にもいますので、なかなか見舞いにも来られませんが」
「ほんとに病人がでますと、たいへんですね。私たちにもおぼえのあることで、そこは充分お察しいたします」
「そう有仰っていただくと、思うようにしてやれないで恥かしくなりますが、何分年のゆかない者のことなんで、いろいろ教えてやって下さいまし」
次兄はそう云うと軽いお辞儀を残して、再び妹のベッドの方へ戻って行った。
私はこういう煮えきらない近づきの挨拶ではあったが、それでも今に次兄が病院の事務室の方か、看護婦主任の室の方へ行くのではないかと心待たれた。既に再度の通知をうけて来ているはずのかれが、一刻も早くそうしないのが腑に落ちなかった。
とよ子のベッドの方では、先刻とまるきり別人のような低い優しい次兄の声がしていた。
「ね、何か欲しいものはないの、次兄さんが直ぐ表へ出て買ってきてあげるよ」
「………」
「お云い、云ってごらん。え? なんでも遠慮なくお云い」
「下痢してお肚が痛むの」と、重いとよ子の声がやっと聴きとれた。
すると次兄の声はふいに先刻のように大きくなって、
「それなら下痢止めの高価《たか》い良い薬が、ちゃんと買ってやってあるではないか、何故あれを使わない」
「あれと同じ炭末《たんまつ》なら、病院でも服んでいるの」
次兄の声は途切れた。とたんに急にかれが私のベッドの裾を、駈け過ぎて行く姿が見え、扉のそとへ消えて行った。
あれが帰って行く時の姿とは、さすがに私にも信じられなかった。とよ子のベッドが、じっと静まっていると、私まで再び待ち設けるものがあるように、深い沈黙におちてしまった。
果して二十分もするとかれがあたふたと戻ってきた。いきなり妹の方へは行かずに私のベッドに近づき、手に一つの小箱を掲げて見せた。
「驚ろきましたねえ、薬の高価《たか》くなったにも。このソマトーゼはもとは六円五十銭でしたが、只今は十円近いでしたよ。いや実に高価《たか》くなったものです」
私は黙って小箱などにはひと眼もくれず、じっとかれの方を見守らずにいなかった。私は漸く妹の病苦よりも金銭を先に云う彼が憎くなってきた。私は撥ね返す沈黙で彼れをむこうへ追いやりたかった。
到頭この日も附添婦を雇う話は、こんなことで有耶無耶のうちに過ぎてしまった。
ところがその翌日の昼ごろには、うす物の良い身なりをした大兵肥満の女のひとが素通りで、とよ子の
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