鷹野つぎ

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)閾《しきい》まで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)日光を遮断する、[#底本では句点、12−5]樺色の日覆が
−−

 窓というものが、これほどたのしいものとはまだ知らなかった。それも私が枕をならべて病んでいた私の少年を先立たせ、やがて一ケ月後同じこの病院内に転室した日以来のことである。
 私の病児と過した半年間は、母子とも枕があがらなかった。頭上に開いていた北窓には、窓の閾《しきい》まで日光を遮断する、[#底本では句点、12−5]樺色の日覆が来る日も来る日も拡げた蝙蝠の片羽のかたちで垂れさがっていた。殊に秋の末から冬にかけては、よくよく穏やかな日和でないと、北風をおそれて硝子障子さえもぴたりと閉《た》てきった。
 六畳の病室で母子の眼を向けるところと云っては、天井か足下の出入口かお互いの顔か、または反面の板壁しかなかった。お互いの顔を見合う日は最も気分のいい日で、私は病児の髪の伸びたのも苦にするほど何か楽しい母ごころに、不幸な濁流に抜手をきっているような、さなかの逼苦も柔らげられるのであった。病児も笑顔を見せた。重い病苦のその笑顔というのが、それ自身、少年の生涯の思いを吐き出していると見え、病前数年に亘る私たちの家族の嘗めた境遇の追変が罪ぶかく私の胸を刺した。いたいけな少年の心をいためた困苦は親ともろとも仆れたところにも現われ、私の詫び思う気持は一つの言葉にも探せなかった。親切な若い附添婦が私の子供を、いたわり可愛がってくれるのがその頃の私の病苦の何よりの薬療であった。
 転室した日は仲春の爽やかな昼すぎで、新らしく定められたそこの二階の私のベッドには、南の窓が開けていた。重病室と呼ばれたもとの子供と一緒の室では、思いも及ばなかった明るさと清々しい大気が通うていた。歩行のまだ充分でなかった私は、附添婦に小脇を拘えられつつ、床頭台に彼岸桜のやや花びらを散らした花瓶の置かれた、新らしいベッドに近づいた。
 子供の急変に、院長、主任医師、看護婦たちの駈けつけたあの三月末の真夜の思いが、今この日に続いていたとは、わけもなく私に意外であった。死別後は私の容態も増悪し、一か月近くを同じ重病室に過したが、その間、誰れ一人死児のことを口にしてくれなかったのも、ふるえ上る私の傷みにはおもいやりのある好意であった。
 新らしく対った南の窓からは、武蔵野《むさしの》の一郭を蓋う空がゆるやかな弧を描いて、彼方の街路の端れに消えていた。まず視界の八分は空であった。あとの二分を俯瞰すると、前方が中庭をはさんで並行した別の病棟で、西方に渡廊下をもって右折して続いた医務室などの建物があり、東方には病院の裏門が眼近に迫っていた。
 仰臥すると視野《しや》はもう空の一色であった。晴れた日、曇った日、雲の流れ漂う日、暁の光り、夕ぐれのうつろい、四時私の視野をはなれなかった。
 空は生活の澱に沈んで、痛み悩む思いとは、一線を画した、寛いだ豊かな相貌を湛えていた。人事をそこへつなげようとする階梯がなかった。遙かで神秘で美しかった。私は後に一年も経てから嵐に襲われ狂う空の叫びも知ったが、その日はただ唖然とし、畏服してその怒りの鎮まるのを、今か今かと待つばかりであった。中庭の樹々は一吹毎に悲鳴をあげて伏し靡き、可憐な木槿の白花は既に嵐の一吹きで散り失せ、松樹の太い根もゆらいで傾いた。
 硝子戸にはしぶく雨滴が滝となって流れ、やがて破れ、突風は私のベッドにまず一撃をあたえて、花瓶も金魚鉢も吹き飛ばした。私は濡れ鼠となったが、およそ雨を凌げる衣類や蚊帳までかぶっているうちに、硝子の破れ目が板戸で塞がれ、まだ他の病室の被害で右往左往している廊下の足音を、難をのがれた私はこれはたいした嵐だと思って聴いていた。
 日頃臥たきりの病人が駈足で他の病室へ避難する姿も見えた。「窓ぎわの者がいちばんひどいんですよ」と云う甲高い声もまじった。
 二百十日という厄日が、古来の経験で恐れられていた実証が、あまりに如実だったので、夕方凪ぎ晴れてきた時には、その渦雲を浮べた空に私は半ば讃嘆したような感じを持った。濡れ鼠の被害も私の安静の心を掻きみだす程ではなかった。看護婦が、その日の夕方、私の濡れものをそとへ運び出し、あまりまごつきもせず寝工合よくベッドを整えなおしてくれたのも、この天変が程よくきりあげてくれた感謝であった。
 怒る空はそう度々はなかった。殆ど四時の多くは底知れぬ穏顔の空であった。殊に青い空の盤上に白い雲が、いいようもないさまざまの形をあらわして、流れ漂うさまは、払拭された青一色の空よりも私の眼にはたのしかった。朝かげ夕かげの移りゆくさまも
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鷹野 つぎ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング