、その空の下に通う風の音も、たのしかった。
灰色に沈黙している空や雨を降らしている空には、私はおとなしく眼を伏せて、そういう空の憂欝と共に過し、その静けさが深い天上のものにも通うと思われて安らかであった。殊に転室した当初の私の窓を得たよろこびは晴雨につけ視野にはいる、樹の梢の一つ一つにも及んだ。
「何を見ていらっしゃいます」[#底本は「いらっしやいます」、15−1]
聖書を膝の上に置いているような暇な時に、附添婦が時折りたずねた。
「何かお読みいたしましょうか」
私はいつも南にばかり向けている重い頸筋を、附添婦の腰かけている反対側に向けた。
「ぼんやりしているのが、とてもたのしくてね」
「いろいろお悲しみにならないが、よろしうございます。亡くなった坊やのおためにも」
附添婦の小谷さんは部厚い聖書の頁を繰り展げた。
私は亡児の気分のよい時に、小谷さんに二三度聖書を読んでもらったことを思い出した。今でもありありと眼に浮ぶのは、そうして読む時の小谷さんの変り方であった。読みはじめるから忽ち声がよろこびを帯びて慄え、読み句切毎には、ほほと云う笑顔を立てるのであった。
身を揺り顔をさっと輝やかせ、およそこのひとつに集中した心のたのしさが、二十七歳の小谷さんという女性を包みとらえて了って、笑声をまじえて読む朗誦は、ますます調子よく続けられて行くのであった。
聴いている母子の私たちも、さすがに最初の時からこの小谷さんの変化に気づかずにはいなかった。どうかすると亡児も私も肝腎の聖書の言葉よりも、小谷さんが唇を舌の先で濡らす仕ぐさや、瞳をひきよせた眼つきや、足ずりする身ぶりなどに気をとられていた。
その後母子の月日が尽きて、私一人となった今では、小谷さんは今こそ私が道を聴くにまたとない時と考えたものか、部厚い聖書を再び膝の上に繰り展げて見せる日が多くなった。
けれど私は心にもないことを云っては、余計いけないと思い、ついぞ読んで下さいとは頼まなかった。私には前云ったように窓をむいてるたのしみが、無上に思われて来た時であったから、この気持を抂げることが第一苦しかった。
「私が窓に向いて黙っていると、苦しんでいるように見えますか」
私は小谷さんにたずねてみた。
小谷さんはこの問いを待っていたように、丸椅子をすすめて、
「そうなんですの、私にはお苦しみになっているとばかり見えます。それにここでの御不幸のほかにも、いろいろまだおありでしょうから」
それには答えずにいたが、こうした会話の途切れには小谷さんは、どこか疑わしそうに私から身を引いて、眼ばかり向けているように思われた。
私はもっと打解けて、もっと身近かな話でもしたかった。売物の話とか、買物の話とか、そういうことでもよかった。
だが小谷さんには、二日か三日おきに、食物や花など持ってたずねて来る私の夫を見ていたから、買物や食物の話は余計であった。まだ私の息子も娘も時折り思いついた品物を携えて見舞いに来ていたので、そういう時には小谷さんは慇懃一方のひとであった。
小谷さんのよろこぶ聖書の朗読や、話を聴く代りに、私は寛ろいだ方面に話を向けようと思って、
「小谷さんは九州のお生れでしたね、海岸ですか」
「長崎ですの」
答えた小谷さんの口調には、私がかの女の望むものを避けていると見てとった、無愛想があった。
「お家をはなれて、こういうお仕事を持つには、あなたにもお考えがあったんでしょうねえ」
「私はすべてを主に捧げておりますから、家も両親も兄弟も、もう私に戻れとは申しません。私の堅い決心は皆の心をも動かしましたの。もう私は病者の友となり、主に仕える歓びでいっぱいでございます」
小谷さんはこう無駄口を急いできりあげたいように、一気に云った。私はかの女の口辺に冷やかなる笑いが掠めたのも見てとった。
重い症状で黙って窓ばかり見ているような病人の取扱いには、小谷さんを辟易させるものがあったに相違なかった。それにもう四十の上を半ばも越えたいい年配で、ぼんやり雲を眺めている姿は、少し耄けても見えた。小谷さんは腹を立てたように安静あけの朝夕の床掃除に、雑巾棒をぐいぐいと私のベッドのまわりにも当てながら、讃美歌を歌った。
み空の彼方、かしこには、
花かぐわしく咲きて
いのちの木《こ》の実《み》なるところ……。
それを聴く私の気分は苦しいまでに冴え、小谷さんの手をかえ品をかえる伝道の熱心さにも心打たれた。
既に附添われた最初のころから私は、かの女が模範附添婦として院長にも認められて居り、家族に病人ができれば小谷に頼もうと、云われるほどの信任があることも知っていた。それほどだから病院中の篤信者であり、看護にも誠実家として屈指の一人であるのは云うまでもなかった。床上を
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