夜の鳥
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)魏《ぎ》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自然|諷詠《ふうえい》で
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔chair a` canon〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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去年の夏のことだ。
H君夫妻が、終戦後はじめて軽井沢の別荘びらきをするといふので、われわれ旧友二三人が招かれたことがある。そのなかに、久しぶりでわれわれの前に姿をあらはしたG君もゐた。これは思ひがけなかつた。
われわれ仲間といふのは、ほんの高等学校の頃に同室だつただけの関係なのだが、そんな漠然とした若い時代の友情が、めいめい別れ別れに大学へ進んでからも、やがて社会へ出てからも、案外そこなはれずに続いてゐたのである。
同勢は六人ほどで、文科系統が多かつたけれども、G君は工科だつた。もう一人、魏《ぎ》さんといふ山東《さんとう》出身の留学生がゐて、これは医科だつた。のつぽといつていいくらゐ背の高い男で、とつつきの悪い不愛想なところがあつたが、実は飃々《ひょうひょう》とした楽天家で、案外すみに置けない粋人《すいじん》でもあつた。魏怡春《ぎいしゅん》といふ名前が、まさに体《たい》をあらはしてゐたわけである。
そんな彼に、われわれはよく甘えたり、罪のない艶聞《えんぶん》をからかつたりしたものだ。大学を出ると長崎へ行つて、はじめは医大につとめ、やがて開業した。日本人の細君をもらつたとかいふ噂《うわさ》もあつたが、そのへんから段々消息がぼやけて来て、まもなく戦争になつた。山東へ帰つたらしいと、誰いふとなしにそんな風聞も伝はつたが、確かなところは分らなかつた。もし帰つたとすれば、彼の運命は果してどうなつてゐるだらう。無事で、若白毛《わかしらが》がますます霜《しも》を加へて、相変らず飃々《ひょうひょう》としてゐるだらうか。……われわれはまづ、そんなことを噂し合つた。
G君は、われわれの仲間では唯《ただ》一人の山岳部員だつた。かと云つて先頭に立つて賑《にぎや》かに音頭をとるのではなく、むしろ黙々として小人数で沢歩きをするといつた風であつた。一度など、単身で雨あがりのザンザ洞へいどんで、トラヴァスの失敗から人事不省になつたことさへある。まだ沢歩きが今ほどはやらない時分のことだから、木樵《きこ》り小屋の人がひよつこり水を汲《く》みに降りて来なかつたら、とつくにGは白骨を水に洗はれてゐたに相違ない。……そんな経験のあつたことを、われわれ仲間でさへ余程あとになつて、彼が何首かの歌に歌ひこむまでは、さつぱり知らずにゐた始末だつた。
歌といへば、Gはわれわれの中で唯一人の歌よみでもあつた。当時の風潮にしたがつてアララギ調で、なかでも千樫《ちかし》に私淑《ししゅく》してゐたらしいが、ちよいちよい校友会雑誌などに載るその作品は全部が全部自然|諷詠《ふうえい》で、たえて人事にわたらなかつた。格調がととのひすぎて、つめたく取澄ましてゐるやうな彼の歌風は、学校の短歌会の連中から変に煙たがれてゐたらしい。そこでも彼は孤独だつたのだ。学校の先輩に当る詩人に、Gがわれわれの仲間のSを介して、歌稿の批評をもとめたことがある。その人は詩壇きつての理知派と云はれてゐたが、一流のきらりと光るやうな微笑とともに、
「ああ、この人は鉱物だね」
と評し去つたさうだ。Sは面白がつて、この評語をわれわれに披露したが、さすがに当人には匿《かく》してゐたらしい。悪意の批評ではないまでも、少しばかり的を射すぎてゐると思つたのだらう。Sは世話ずきな男だつた。
なるほどさう言はれてみれば、Gには人間を鉱物に還元して考へるやうなところがあつた。そのためには先《ま》づ自分自身を、鉱物に還元するのである。自然との対話によつて、やうやく自分の孤独を満たしたやうな人なら、古来めづらしいことではない。さういふ人たちは好んで自分を草木に化する。Gはそれができない性格だつた。あるひは草木の時代を、まだ自分が生まれないずつと遠い昔に経過してゐるのかも知れなかつた。がとにかく、そんな人間は詩歌など作らぬ方がいい――と、例の理知派の詩人は皮肉つてゐるらしく思はれた。その詩人は、その後まもなく毒薬自殺をした。そしてGは、やがて忘れたやうに歌を作らなくなつた。
Gは、大学では建築をやつた。卒業設計は大がかりな綜合《そうごう》病院のプランだつた。いよいよ出来あがつて提出する前、彼は大きな図面を何枚もわれわれに見せて、かなり丁寧に説明してくれたものだが、今ではもう、おそろしく沢山《たくさん》の棟《むね》に分れた複雑きはまる見取図や、オランダの民家を見るやうな柔らかな屋根の色や線が、おぼろげに記憶に残つてゐるだけで、こまごました技術上の苦心や抱負などは、当時にしてもわれわれには見当さへつかなかつた。
が、そんな夢みたいな設計図でも、専門家の眼には何か見どころがあつたらしい。Gは卒業後しばらく東京のT工務所につとめたのち、ちやうど京城《けいじょう》に新たに建つことになつた大きな病院の仕事に、破格なほど高い椅子《いす》を与へられた。そのまま大陸に居すわつてしまひ、やがて満洲へ渡つたことだけはわれわれの耳に伝はつたが、あとはさつぱり消息が絶えた。つまりGは、例の魏さんに次いでわれわれの視界から姿を消したのである。
そんな彼に、われわれはHの別荘で、ほとんど二十年ぶりに再会したわけだ。懐かしいといふより、一種の間のわるさが先に立つた。年月の空白といふものは、男の場合でも女の場合でも、何ともぎごちないものだからである。男女の間なら、一種の擬勢でそれを埋めることができるかも知れない。だが男どうしでは、その助け舟も頼みにはならない。
外交官のSは、身についた社交辞令で、とにかくGのその後の生活について根掘り葉掘り問ひかけたが、満足な答は得られなかつた。Gが照れる先に、当のSが照れてゐるのだから話にならない。結局わかつたことは、Gが現在独身であること(その口ぶりでは、どうやら一度は結婚したらしくある――)、それにもう一つ、朝鮮や満洲に十ほど病院を建てて来た、といふことだけだつた。口数の少ない曾《かつ》ての彼を見馴《みな》れてゐるわれわれは、それだけで十分満足した。やがて、交際ずきなHの細君《さいくん》の奔走《ほんそう》で、知合ひの夫人や令嬢を招いての夜会になつた。Hの細君としては、早くもGの後添《のちぞい》のことを想像に描いてゐたのかも知れない。その席でGは案外器用な踊りぶりを見せたが、令嬢にしろ夫人にしろ、彼が注意を特にかたむけたと思《おぼ》しい相手は一人もなかつた。大きい眼をむいてひそかに彼の一挙一動に気をくばつてゐたHの細君は、ほとんど露骨な失望の色を見せた。
夜会から一日おいての朝、われわれは夏山登りを思ひついて、あまり気の進まないらしいGに案内役を無理やり承諾させた。Gはしばらく思案してゐたが、浅間といふ誰やらの提案をしりぞけて、一文字山から網張山を経て鼻曲山へ出る尾根歩きならお附合ひしてもいいと言ひ出した。それなら都合によつては、霧積《きりづみ》温泉に泊る手もあるといふのである。
ゆふべの令嬢たちの中からも二人ほど加はることになつて、出発は午《ひる》ちかくなつた。のみならず、その夏はまだこのコースを踏んだ人があまりないと見えて、思はぬ場所に藪《やぶ》がはびこつてゐたりして、女連中の足はなかなか捗《はかど》らなかつた。鼻曲山の頂上にたどり着いた頃は、落日が鬼押出《おにおしだし》の斜面に大きくかかつてゐた。
日帰りはあきらめなければならなかつた。われわれは日の影りかけてゐる東の尾根を霧積へ下りることはやめて、明るい西斜面づたひに小瀬温泉をめざした。温泉に着いてみるともう暗かつた。
その晩、わたしはGと同じ小部屋で寝ることになつた。あかりを消して眼をつぶつてみたが、疲れてゐるくせに眠気がささない。Gも同じらしかつた。殆《ほとん》ど一時間ほどもさうしてゐた挙句に、どつちから言ひだすともなく連れだつて浴室へ下りた。
月はなく、山あひの闇が思ひがけないほどの重さで窓に迫つてゐた。湯川の瀬音が耳もとへ迫つたり、遠まつたりしてゐた。私たちは湯ぶねの中に向ひあつて瞑目《めいもく》したまま、その音を聞くともなしに聞いてゐた。まるで息をしてゐるのが私たち二人ではなくて、却《かえ》つて自然の方であるやうな気がした。
何かしら苦しい沈黙だつた。するとその時、すぐそこの松山の中でギギッとけたたましい啼《な》き声がした。同時にするどい羽音がして、中ぞらへ闇を裂いた。そして消えた。
「なんだらう、雉子《きじ》かな?」と私は言つてみた。
「さあね、五位鷺《ごいさぎ》ぢやないかな。」
Gは目をつぶつたまま、鈍い声で答へた。あとはふたたび瀬音だつた。
湯からあがつて、また寝床へもぐりこんだが、今度もやつぱり寝つけない。先に辛抱を切らしたのはGの方だつた。彼はライターをつけて、枕もとの水をうまさうに飲んだ。私も腹這《はらば》ひになつて、暗がりでタバコを吸ひだした。
「寝られないかい?」とGがきく。
「うん。つい鼻の先まで夢は来てるんだが、どうもいけない。……さつきの鳥の声がまた聞えさうな気なんかがして、また夢のやつ、スイと向うへ逃げちまふ。」
「ああ、あの声か。……やつこさん、蛇《へび》にでも襲はれたかな。」
「さうかも知れない。とにかく、かう耳につきだしたら百年目だ。」
Gは低く笑つた。暫《しばら》くして、何気ない調子でこんなことを言ひだした。――
「何か話でもしようか。君があんなことを言ひだすものだから、僕まであの声が耳について来た。……」そこで言葉をきつて、「実はね、あの鳥の声で、ふつと思ひだしたことがあるんだよ。つまらん話だがそれでもしようか。」
私が承知をすると、Gは次のやうな話をしだした。……
*
内地を出て、最初の五年ほどは京城にゐた。つぎの七年は満洲にゐた。そのあひだにまづまづ自分の仕事と呼んで差支へない病院を、大小とりまぜて十ほど作つた。最後の三つなどは、設計から施工の監督まで僕の手一本でやつた。なかでも新京《しんきょう》の慶民病院は、規模こそ小さかつたが、まあ悪くはないと思つてゐるのだがね。
その仕事が済むと、まもなく太平洋戦争になつた。満洲の建設どころではあるまいから、その辺で見きりをつけて、外地歩きから足を洗はうかと思つた。うつかり帰ると待つてゐましたとばかり徴用されるぞ――そんなことを言つて威《おど》かす友人もゐた。なるほど徴用も結構だが、マーシャル・カロリンあたりの設営隊へ駆りだされるのは、ぞつとしなかつた。もう一つ二つ建てておきたい病院の夢もあるものでね。くだらん執着には違ひない。だが、どうも自分が、まんいち前線基地へでも出ていつたら最後、まつ先に脳天を射抜かれるやうな男に思へてならなかつたのだ。……ああ、家内かい? (と彼は私の挿んだ質問にこたへて)家内は京城でもらつて、京城で死なした。産褥《さんじょく》熱だつた。子供も一緒に死んでしまつたから、まあ、その点はさばさばしたものだが、とにかく僕は躊躇《ちゅうちょ》したね。
そのまま役所通ひをしながら形勢を窺《うか》がつてゐると、やがて華北交通から来ないかと言つて来た。最初の仕事は、北京《ペキン》の郊外あたりに鉄道病院みたいなものを作るのだといふ。僕はその頃、採光の様式についてちよつとした発見をしたところだつた。もちろん机上のプランだから、なんとかして実地に試してみたくてならなかつた。それには材料の上で或る註文《ちゅうもん》があつた。その材料が北支なら、まだまだ使へる可能性があるやうに想像された。
そこで僕は休暇をとつて大連《だいれん》へ行つた。満鉄の本社に北支の事情に明るい先輩がゐたので、その人の意見を求める
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