つたのだ。何もなかつた。ただ作りつけのベンチの上に、砂が乾いてゐるだけだつた。やうやく一つ、桃色の破れスリッパの片つぽが落ちてゐるのを見つけた時には、何かしらほつとした気持だつた。
僕は引き返して、ホテルの前を通りこし、裏山へ登るらしい道をみつけると、ぶらぶらのぼつていつた。松、とべら、ぐみ、あふち、そんな樹々のつやつやした葉なみが、じつに久しぶりで眼にしみた。何しろ十何年のあひだ僕は緑らしい緑を見ずにゐたのだからね。だんだん登つて行くと、ちらほら家の屋根らしいものが見えはじめた。最初に現はれた一軒は、張りだした円室を持つた古めかしい洋館だつた。外まはりの漆喰《しっくい》は青ずんで、ところどころ剥《は》げ落ちてゐる。ポーチを支へてゐる石の円柱も、風雨にさらされて黒ずんでゐる。窓の鎧戸《よろいど》の破れから覗いてみると、なかの薄暗がりに椅子《いす》テーブルが片寄せに積みあげられ、鼠《ねずみ》が喰ひ散らしたらしい古新聞や空罐《あきかん》などがちらばつてゐる。そのほかに小会堂風のだの、バンガロー風のだのが、林間のそこここに立つてゐたが、どれを見ても内も外も一様にひどく荒廃してゐた。その建築
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