るやうな町だつた。海岸通りのアカシヤの並木が美しかつた。
黄金台といふのは、湾口を東から扼《やく》してゐる岬の名だ。ホテルはその岬の裏側にあつた。市街から洋車でものの二十分もかからうかといふ松林のなかに、置き忘れられたやうに立つてゐた。バンガロー風のポーチに立つて、二三べん大きな声で呼んでみても暫《しばら》くは誰も出て来ない。そんなホテルだつた。
泊り客はどうやらゐないらしかつた。いや第一、使用人もゐるのかゐないのか分らぬほどだつた。ポーチに出て来たのも若い支配人自身なら、二階の部屋へ案内してくれたのも同じ彼だつた。閑静を通りこして、むしろ無人に近い。僕はちよつと狐《きつね》につままれたやうな気がしたね。
下のサロンで、支配人が手づから運んで来てくれたお茶を飲んでから、僕は海岸へ出てみた。ちよつと七里ヶ浜を思はせるやうな荒れさびた浜だつた。薄ぐもりの空の下で、黄海の波が鉛《なまり》いろにうねつてゐた。人つ子ひとりゐない。ペンキの褪《あ》せた海水小屋がぽつりぽつりと立つてゐる。みんな鍵がかけてある。僕はそれを一つ一つ覗《のぞ》いて廻つた。何か風俗のきれはしでも落ちてゐはしまいかと思
前へ
次へ
全34ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング