ら百年目だ。」
 Gは低く笑つた。暫《しばら》くして、何気ない調子でこんなことを言ひだした。――
「何か話でもしようか。君があんなことを言ひだすものだから、僕まであの声が耳について来た。……」そこで言葉をきつて、「実はね、あの鳥の声で、ふつと思ひだしたことがあるんだよ。つまらん話だがそれでもしようか。」
 私が承知をすると、Gは次のやうな話をしだした。……

        *

 内地を出て、最初の五年ほどは京城にゐた。つぎの七年は満洲にゐた。そのあひだにまづまづ自分の仕事と呼んで差支へない病院を、大小とりまぜて十ほど作つた。最後の三つなどは、設計から施工の監督まで僕の手一本でやつた。なかでも新京《しんきょう》の慶民病院は、規模こそ小さかつたが、まあ悪くはないと思つてゐるのだがね。
 その仕事が済むと、まもなく太平洋戦争になつた。満洲の建設どころではあるまいから、その辺で見きりをつけて、外地歩きから足を洗はうかと思つた。うつかり帰ると待つてゐましたとばかり徴用されるぞ――そんなことを言つて威《おど》かす友人もゐた。なるほど徴用も結構だが、マーシャル・カロリンあたりの設営隊へ駆りだされるのは、ぞつとしなかつた。もう一つ二つ建てておきたい病院の夢もあるものでね。くだらん執着には違ひない。だが、どうも自分が、まんいち前線基地へでも出ていつたら最後、まつ先に脳天を射抜かれるやうな男に思へてならなかつたのだ。……ああ、家内かい? (と彼は私の挿んだ質問にこたへて)家内は京城でもらつて、京城で死なした。産褥《さんじょく》熱だつた。子供も一緒に死んでしまつたから、まあ、その点はさばさばしたものだが、とにかく僕は躊躇《ちゅうちょ》したね。
 そのまま役所通ひをしながら形勢を窺《うか》がつてゐると、やがて華北交通から来ないかと言つて来た。最初の仕事は、北京《ペキン》の郊外あたりに鉄道病院みたいなものを作るのだといふ。僕はその頃、採光の様式についてちよつとした発見をしたところだつた。もちろん机上のプランだから、なんとかして実地に試してみたくてならなかつた。それには材料の上で或る註文《ちゅうもん》があつた。その材料が北支なら、まだまだ使へる可能性があるやうに想像された。
 そこで僕は休暇をとつて大連《だいれん》へ行つた。満鉄の本社に北支の事情に明るい先輩がゐたので、その人の意見を求めるつもりだつた。あひにくその人は天津《てんしん》へ出張中で、あと四五日しないと帰つて来ないといふことだつた。大連は二度目だつたが、どうも好きになれない町だ。星ヶ浦に泊ることにしたが、どうもそこも、安手のブルジョア趣味で僕を落着かせない。白状すると、僕はその頃ちよつとばかりノスタルジヤにやられてゐたのかも知れなかつた。何しろ内地通ひの便船が、つい目と鼻の先で煙を吐いてゐるのだからね。
 そこでホテルの支配人に、どこか静かな場所はないかと相談を持ちかけてみると、旅順《りょじゅん》の町はづれにある黄金台ホテルといふのを教へてくれた。もつともこんな時世だし、避暑のシーズンも過ぎたしするので、休業してゐるかも知れない……といふ話だ。電話で連絡してみると、あと十日ぐらゐで閉めるところだといふ。なるほどもう九月も中旬にかかつてゐた。僕は早速トランク一つぶらさげて出かけた。
 些《いささ》か不安な気持もあつた。旅順といへば、小さい時から植ゑつけられてゐる先入主があつたからね。つい血なまぐさい、かさかさした土地を想像しがちだつた。だが行つてみて、僕の想像はきれいに裏ぎられた。青い小さな湾をひつそり抱いてゐるやうな町だつた。海岸通りのアカシヤの並木が美しかつた。
 黄金台といふのは、湾口を東から扼《やく》してゐる岬の名だ。ホテルはその岬の裏側にあつた。市街から洋車でものの二十分もかからうかといふ松林のなかに、置き忘れられたやうに立つてゐた。バンガロー風のポーチに立つて、二三べん大きな声で呼んでみても暫《しばら》くは誰も出て来ない。そんなホテルだつた。
 泊り客はどうやらゐないらしかつた。いや第一、使用人もゐるのかゐないのか分らぬほどだつた。ポーチに出て来たのも若い支配人自身なら、二階の部屋へ案内してくれたのも同じ彼だつた。閑静を通りこして、むしろ無人に近い。僕はちよつと狐《きつね》につままれたやうな気がしたね。
 下のサロンで、支配人が手づから運んで来てくれたお茶を飲んでから、僕は海岸へ出てみた。ちよつと七里ヶ浜を思はせるやうな荒れさびた浜だつた。薄ぐもりの空の下で、黄海の波が鉛《なまり》いろにうねつてゐた。人つ子ひとりゐない。ペンキの褪《あ》せた海水小屋がぽつりぽつりと立つてゐる。みんな鍵がかけてある。僕はそれを一つ一つ覗《のぞ》いて廻つた。何か風俗のきれはしでも落ちてゐはしまいかと思
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