つたのだ。何もなかつた。ただ作りつけのベンチの上に、砂が乾いてゐるだけだつた。やうやく一つ、桃色の破れスリッパの片つぽが落ちてゐるのを見つけた時には、何かしらほつとした気持だつた。
 僕は引き返して、ホテルの前を通りこし、裏山へ登るらしい道をみつけると、ぶらぶらのぼつていつた。松、とべら、ぐみ、あふち、そんな樹々のつやつやした葉なみが、じつに久しぶりで眼にしみた。何しろ十何年のあひだ僕は緑らしい緑を見ずにゐたのだからね。だんだん登つて行くと、ちらほら家の屋根らしいものが見えはじめた。最初に現はれた一軒は、張りだした円室を持つた古めかしい洋館だつた。外まはりの漆喰《しっくい》は青ずんで、ところどころ剥《は》げ落ちてゐる。ポーチを支へてゐる石の円柱も、風雨にさらされて黒ずんでゐる。窓の鎧戸《よろいど》の破れから覗いてみると、なかの薄暗がりに椅子《いす》テーブルが片寄せに積みあげられ、鼠《ねずみ》が喰ひ散らしたらしい古新聞や空罐《あきかん》などがちらばつてゐる。そのほかに小会堂風のだの、バンガロー風のだのが、林間のそこここに立つてゐたが、どれを見ても内も外も一様にひどく荒廃してゐた。その建築様式や住み方の工合《ぐあい》が、なんとなくロシヤ臭い。僕は、ひよつとするとこれは、昔ここがロシヤの要塞だつた頃の遺物ぢやあるまいかと思つた。夕闇が迫つてゐた。僕はすこし不気味になつて、その空屋部落を立去つた。
 夕食はがらんとした食堂で、一人きりで食べた。そのあとで支配人が顔を見せたので、例の空屋部落のことを聞いてみると、やつぱり思つたとほり、ステッセルの幕僚たちの官舎だといふことだつた。
「すつかり荒れてしまひました。何しろ四十年からになりますからね。それでも修繕しいしい、貸別荘に使つてゐました。ええ、夏場などハルビンあたりのロシヤ人が、よく来てゐたものです。この二、三年ぱつたり姿を見せなくなりましたがね。いくら修繕しても雨漏《あまも》りがして、今ぢやとても住めたものぢやありませんよ。」
 そんなことを支配人は言つた。
 僕は部屋へあがつて、今しがた支配人がくれた案内記を読みはじめた。そして、さも遊覧客らしく、明日の予定を心に描きはじめた。さうでもするよりほかに仕事がなかつたからだ。森閑《しんかん》としてゐた。下にも二階にも物音ひとつしなかつた。時々かすかに波の音が伝はつてきた。そのうちにふつと、さつき見た空屋の一つのエレヴェーションが眼にうかんだ。ちよつと使つて見たい線がそこにあつたのだ。僕はスケッチ・ブックを出して、記憶をたどりながら素描しはじめた。どこかで水の音がした。二階の廊下を鍵の手にまがつたずつと奥のあたりで、誰かが水道の栓をひねつたらしい。音はすぐやんだ。空耳かも知れなかつた。ちよつと気になつたが、すぐ忘れた。
 鉛筆のついでに、例の小会堂風の空屋の印象を素描してみたりした。そのうちに僕の眼前を、あの外套《がいとう》みたいな灰色の軍服をきたロシヤの将校たちの姿が、ちらちらしはじめた。それがあの空屋を出たり入つたりする。ポーチの敷石に引きずる佩剣《はいけん》の音もする。……それが幻といふより夢に近かつたらしい。僕はいつのまにかうとうとしてゐたのだ。
 はつと目がさめた。何か音がしたと見える。しばらく耳をすましてゐたが、何も聞えない。僕はもう寝ようと思つて、いつもの習慣どほり、寝る前のうがひをしようと思つた。廊下へ出て、すぐ前の洗面室へはいつた。カランをひねらうとしてふと気がつくと、水盤は栓がしつぱなしで、濁つた水が八分目ほどたまつてゐた。そのうへ、そこらぢゆうに水がはねかつてゐる。明らかに僕の仕業ではない。僕はちよつと不愉快になつて小窓をあけ、そこからうがひの水を吐かうと思つた。
 空はすつかり曇つてゐるらしい。低い、押しつけるやうな闇だつた。その中へ、咽喉《のど》の水を吐きだした途端に、ほら、ちやうど先刻みたいなギギーッと裂くやうな啼声《なきごえ》と、けたたましい羽ばたきがしたのさ。不意のことだし、不愉快になりかけてゐた矢先のことだしするので、そのぎよつとした感じが、しこりのやうに残つて変に腹だたしく、暫《しばら》くは寐《ね》つけなかつた。
 あくる日は晴れだつた。僕は昨夜の予定どほり、朝のうちから博物館へ出かけた。案内記で大体の見当はつけてゐたが、こんな半島の先つぽ、しかも戦蹟《せんせき》としてばかり名高いこの町に、よくもあれだけの博物館があつたものだ。はじめの幾室かは仏像の蒐集《しゅうしゅう》だつた。僕はもちろん、仏像のことはよく分らない。だが、ぼんやり眺めてゐることは好きだ。朝鮮の頃はさうでもなかつたが、満洲ではついぞそんな心の休まるやうな時にめぐまれなかつた。僕はだんだん引き入れられるやうに一つ一つケースを覗《のぞ》いて廻
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング