まあしごく泰平無事だつたといへるだらうね。
所もあらうに、季節はづれの旅順なんかで、しかもそんな人気《ひとけ》のないホテルで、その女にぱつたり再会したのだ。ちつとは驚いてもよからうぢやないか、だがそれつきり、その日は彼女の姿を見かけなかつた。夕食はやつぱり僕一人だつた。
あの婦人はここに泊つてゐるわけではあるまいと、僕は断案をくだした。おそらく知人かそれとも良人《おっと》を訪ねてきて、それがゐないので失望して帰つたのだらう。もしそれだとすると、誰か僕のほかに二階に泊つてゐる人があることになる。その人が夜更けに水道の栓をひねつたり、洗面盤の水をはねかしたりしたわけだ。だがまた、その下手人《げしゅにん》は必ずしも泊り客でなくてもいいわけだ。二階の客の用にそなへて、ホテルでは大抵どこか二階の奥あたりに、ボーイの詰所《つめしょ》があるはずだ。そこにシーズン外れの時節には、コックさんか何かが寝泊りしてゐてもいいわけだ。……そんなことを僕は漠然と考へた。その女が誰を訪ねて来たかといふ点は、依然として不明なわけだが、さうさうこだはる必要もないことだつた。
あくる日は殆《ほとん》ど終日、僕はホテルにゐなかつた。午前中は例の空屋部落へ行つて、だいぶ長いこと歩き廻つたりスケッチをとつたりした。それから一たんホテルに帰ると、旧市街へ出かけた。ふと目についた戦蹟《せんせき》巡覧のバスに、空席があるといふので、ふらりとそれに乗りこんだ。バスは、天井に大きな弾痕《だんこん》のあるロシヤ軍の将校集会所を振りだしに、山へ登つて、坦々《たんたん》たるドライヴ・ウェイを上下しながら、主防備線づたひにぐるぐるめぐつて行く。主だつた激戦地ではバスを降りて、運転手が朴訥《ぼくとつ》な口調で説明してくれる、堡塁《ほうるい》やジグザグの攻撃路などが、一々丹念に復元されてゐて、廃墟といふより、何か精巧な模型の上でも歩いてゐるやうに空々しい。それなりに、肉弾といふ奇怪な言葉が、するどく思ひ返されもする。東鶏冠山《とうけいかんざん》の北堡塁《ほくほうるい》や、松樹山の補備砲台は、平生《へいぜい》セメントや煉瓦《れんが》をいぢくる商売がら、つい熱心に見て廻つたが、けつきよく僕にわかつたことは、〔chair a` canon〕 と human bullet と、この二つの言葉の、はつきりした区別にすぎなかつた。その
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング