る。僕はしぶしぶ快諾した。何しろ二晩悪友のお附合をさせられた挙句で、僕はひどく睡《ねむ》かつたものでね。やがてはいつて来たのが今いつた女だつたのだ。
その時はライラック色ではなしに、こまかい紅色の花を一面に散らした黒い服を着てゐた。持物もそれにふさはしい地味で上品なものだつた。歯ぎれのいい支那語でことわりを言ひ、にこやかに席についた。かすかに竜涎香《りゅうぜんこう》が匂つた。お伴の若い小間使も入口ちかく席を占めた。僕は一目で、これは満人ではないと睨《にら》んだ。なんぼ僕だつて七年もゐれば、そのくらゐの見分けはつくさ。
大人びた物をぢしない身のこなしだつた。はじめはただ美しいと思つたその顔も、近々と横から眺めれば三十の半ばには少なくも達してゐるらしい。愛想よく二言三言はなしかけて来たが、こちは何しろお耳に入れるも恥かしいブロークンな満語だ。まあ大体のところ、日本内地からやつて来た旅行者に見立ててもらふ方針で、言葉すくなに応待するうち、向うもおよその安心が行つたものか、何やら小声で小間使とうなづき合はせると、みごとな宣化|葡萄《ぶどう》の小籠《こかご》をとりだして、まづ僕に取れと言つてすすめた。僕はなるべく小さな一房を選んで頂戴《ちょうだい》する。僕はふと思ひだした、小脇のポートフォリオの中から、ゆふべ友人の細君が「道中で召上れ」といつて呉《く》れたハルビンのチョコレートの小函《こばこ》を出し、葢《ふた》を払つてうやうやしく夫人にすすめた。
そのへんで僕は御免かうむつて食堂へ立つたから、あとのことは知らない。食堂では昼間は禁制のビールを二本ほど、できるだけ緩《ゆっ》くり飲んだ。帰つてみると夫人と小間使とは、互《たがい》にもたれ合つて安らかに眠つてゐた。夫人の頭は、まるまるした小間使の肩にあづけてある。臙脂《えんじ》色の小沓《こぐつ》をはいた片足は、無心に通路の中ほどへ投げだしてあつた。葡萄《ぶどう》の籠《かご》は半ば空つぽになつて、洗面台の上にのせてある。そこで僕も安心して、こつそり窓ぎはの席に坐《すわ》るとぐつすり寝てしまつた。ボーイか誰かが起してくれたと見え、僕がやつと目を覚ました時には、列車はもう大連西郊の工場街にかかつてゐ、夫人はすつかり身仕舞ひをして、廊下の窓に倚《よ》つてゐたといふわけだ。そのまま、税関の検査のどさくさのうちに離れ離れになつたのだから、
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