らよく響く。下りきると、急ぎ足と言つていいほどの足どりで帳場の前を横ぎり、まつすぐこつちへ向つて来た。ライラック色の支那《しな》服をきた脊《せ》の高い女だつた。廊下のまん中で立ちどまると、いきなりこつちへ横を見せて、奥の食堂の方を透かすやうに見た。ほとんど肩すれすれまで、むきだしになつてゐる豊かな二の腕が、蝋《ろう》色に汗ばんで、どうやら胸をはずませてゐるらしい。一二歩、食堂の方へ行きかけたがやめて今度はキッとこつちを見た。もし僕が新聞を楯《たて》にしてゐるのでなかつたら、おそらく眼と眼がぶつかつたに相違ない。そして僕は何かしら声を立てたにちがひない。あの女だ――と僕は咄嗟《とっさ》に思つたからだ。が、女は僕に気づかなかつた。瞬間ありありと失望の色を浮べると、長い裾《すそ》を蹴《け》るやうにして姿を消した。例の支那服特有の裾の裂け目から、きりりと締つたふくらはぎが、一度二度ひらめいた。臙脂《えんじ》色の小さな沓《くつ》もちらりと見えたやうだ。そのどつちも僕は見覚えがあつた。
 僕は耳を澄ました。沓音はポーチの敷石にひびき返つて、外へ出ていつたらしい。暫《しばら》くすると洋車の出て行くらしい軋《きし》りがかすかにした。
 ところで君は、一体その女は僕にとつて何者なのかと、いささか好奇心をもやしてゐるかも知れないね。もしさうだつたら、なんとも申訳ない次第だ。現実はあひにくと、小説ほど都合よくできてはゐないからね。実をいふと僕はその女について、ほとんど知つてゐることはないんだよ。一体あれは何者だつたらうと、未だに時どき思ひだすぐらゐのところさ。
 さうだ、どうせここまで話したら、はつきり言つてしまはう。僕はその女に、三昼夜半ほど前に、たつた一度会つたことがあるだけだつた。会つたといつても、安心したまへ、汽車の中でのことだ。僕はそれまで勤めてゐた民生部を、大体やめる決心がつくと、辞表を懇意な上役にあづけて、新京を去つて奉天《ほうてん》へ行つた。二人ほど別れを告げたい友達がゐたものでね。二日ほどして、大連行きの朝の急行に乗りこむと、案内されたコンパートメントは僕一人だつたのを幸ひ、発車するかしないうちにうとうとしはじめた。しばらくして僕はボーイに揺り起された。席がなくつて困つてゐる婦人がある。少々ゆづつてあげてくれないか――といふのだ。コンパートメントは四人はたつぷり掛けられ
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