ないのです。とは知りながらも、雄鶏《おんどり》はときどき何か癪《しゃく》にさわることがあると見えます。その証拠には、雄鶏はときどき間の抜けた様子をして、のどもさけよと叫び立てるのでした、――『結構《ケッコウ》ドコロジャアリャシナーイ※[#感嘆符二つ、1−8−75]』
おや、いつの間にか私たちは、あの一ばん暑さのきびしい草場を離れて遠くへ来てしまいましたが、実はその草場には、昼寝もせずにいるお歴々が、車座になってすわっていたのでした。といってもみんながみんなすわっていたわけではありません。たとえば年寄りの栗毛《くりげ》などは、馭者《ぎょしゃ》のアントンのむちを横っ腹へ食らいはしまいかとたえずびくびくしながら、乾草の山をかき分けているのですが、これは馬のことですから、もともとすわるなんて芸当はできないのです。またゆくゆくは何かの蝶《ちょう》になる毛虫も、やはりすわっているのではなく、まあ腹んばいになっている方でした。でも言葉の穿鑿《せんさく》なんぞはどうでもよろしい。とにかく桜の木陰に、小人数ではありますが、たいへんまじめな会合が開かれていたのでありました。かたつむりもいれば、くそ虫もい
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