るべからざる原物の異常な双生児として生を享《う》ける――そういう達人の訳業について語るのではない。もとよりこのような飜訳があり得ないとは言えない。一世紀に一つ、三世紀に一つ、いやしくも天才的事情がこの世に偶発し得るかぎりは、ないとは言えない。が、僕ごとき凡庸の凡なる者の飜訳――締切に追われ、米櫃《こめびつ》に責められ、脱稿の目あても立たぬうちから校正が山を積み、君いくら苦労したって誰も君の作とは思っちゃ呉《く》れんよと友人に笑われ、すらすら読めるから不可《いか》んと叱られ、ぎっくりしゃっくりしてるから感心だと褒められ――無我無中のうちに高速度印刷機から吐き出されて万事休する、世の常の飜訳にしたところで、所詮は道は一つである。
 這般《しゃはん》の理を明《あきら》かにして、いわば飜訳の骨法ともいうべきものを一挙にして裁断した文句が、『玉洲画趣』の中に見出される。曰《いわ》く、
[#ここから2字下げ]
「古画を模写し又は諸の真物を写すに、悉く其形に似む事を求むる時は清韵生じ不申候。又米元章、黄子久の如き清雅なる法にても、俗人用ひ候へば俗気生じ、馬遠、夏珪が如き俗法にても高人用ひ候へば、清
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング