「。
だがいくら馬鹿げているからと云《い》って、ここに飜訳という仕事の免るべからざる原理がある以上、どんな飜訳にしろよかれ悪しかれ、この務めを果しているに違いない。そしてそこに色々な悲喜劇が演ぜられることも致し方ない。嘗《かつ》てあるフランスの作家のものが某名家の訳で一世を風靡《ふうび》し、いわゆる新興芸術派の一部に浅ましい亜流を輩出したとき、わが畏友《いゆう》吉村鉄太郎がひそかに歎《なげ》いたことがある、――「あの作家がもし原語で読まれていたのだったら、ああいう見っともない事にはならなかっただろう」と。これはなにも某名家の訳そのものを云為《うんい》したのでも何でもない。世の飜訳というもののどうにもならぬ運命を、はかない皮肉に託して述べただけの話である。一場の譬話《たとえばなし》に過ぎないけれど、その曳《ひ》く影は意外に深い。
飜訳遅疑の説の成りたつ足場は案外にがっしりしていて、実のところ手も足も出ない感じである。それはよく言われる「等量」の問題などの技術的条件の底の底に、儼然《げんぜん》として鎮座している。もちろん僕はここで、時処を超え、人情を超え、世相を毛色を超えて、一あって二
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