七五調又はこれに近似の定形律に陥らずに済むか済まぬか、答は恐らく現在のところでは否であろう。僕は念のため或る言語学者に質《ただ》してみたことがあるが、彼もやはりそれが日本語の本質だと答えた。では日本語は本質的に散文語ではないのか。これは恐らく、日本の言語の全般にわたり、且《か》つ全歴史にさかのぼって、慎重に考慮されねばならぬ問題であるだろう。
抽象性の問題にせよ、散文音律の問題にせよ、これは必ずしも日本語にとって病疾ではないのかも知れぬ。ただこの今日のわれわれの口語というものが発生以来なお日が浅く、且つ発祥地たる東京が不幸にしてあらゆる方言の奇怪な雑居地帯であったため、謂わばまだ白湯《さゆ》がねれていず、散文という結構なお茶を立てるには適せぬだけの話かも知れぬ。いずれにせよ、鉄瓶《てつびん》であるか白炭であるかは知らね、柄にもない風流な役目が、現在のところ飜訳家の肩にのしかかっていることは否めないと思う。
[#地から2字上げ]6.※[#ローマ数字3、1−13−23].1936
[#地から1字上げ](発表紙未詳)
底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年
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