飜訳遅疑の説
神西清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)斯《こ》う

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)平明|暢意《ちょうい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)偶※[#二の字点、1−2−22]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Les distractions du voyage, la nouveaute' des objets, les efforts que nous faisions sur nous me^mes ramenaient de temps entre nous quelques restes d'intimite'.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 滝井孝作氏の筆になる『志賀直哉対談日誌』というのを読んでいたら、偶然次のような一節にぶつかった。
[#ここから2字下げ]
「文体は必ず斯《こ》うだと限定出来ないネ、例え調子が不可《いか》んと言ったって調子がつかなければ何《ど》うにも出せない感じの場合もある、(中略)作品は一つ一つ各々違った文体を持つのが当然だネ、結局文体はどうでもいいのだ、此方の態度が文体を定めるのだ、文体など何うだっていいヨ」
[#ここで字下げ終わり]
 内容と形式、意と形、或いはその他の対辞で現わし得る創作上の大切な契機が、作家としてののっぴきならぬ境地から、きっぱり言い切られている。ここに、文体という変幻不可思議なもやもやしたものが、どうだっていいヨと突放《つきはな》されながら而《しか》もその[#「その」に傍点]作品を生かすべく、その[#「その」に傍点]作品固有のものとして生まれ出るわけだが、このもやもやしたものを各人の鑑識によって具象化する、そこに千人の直接読者があり、更に、このもやもやを千人の読者に謂《い》わば予め代って、恐る恐る或る具象にまで仮にもち来たす、――ここに飜訳者《ほんやくしゃ》の座があり、同時にその罪障を宿命づけられた悲しい存在理由があるに相違ない。当り前の事だが、考えれば考えるほど腹の立ってくる馬鹿げた事実に相違ない。
 だがいくら馬鹿げているからと云《い》って、ここに飜訳という仕事の免るべからざる原理がある以上、どんな飜訳にしろよかれ悪しかれ、この務めを果しているに違いない。そしてそこに色々な悲喜劇が演ぜられることも致し方ない。嘗《かつ》てあるフランスの作家のものが某名家の訳で一世を風靡《ふうび》し、いわゆる新興芸術派の一部に浅ましい亜流を輩出したとき、わが畏友《いゆう》吉村鉄太郎がひそかに歎《なげ》いたことがある、――「あの作家がもし原語で読まれていたのだったら、ああいう見っともない事にはならなかっただろう」と。これはなにも某名家の訳そのものを云為《うんい》したのでも何でもない。世の飜訳というもののどうにもならぬ運命を、はかない皮肉に託して述べただけの話である。一場の譬話《たとえばなし》に過ぎないけれど、その曳《ひ》く影は意外に深い。
 飜訳遅疑の説の成りたつ足場は案外にがっしりしていて、実のところ手も足も出ない感じである。それはよく言われる「等量」の問題などの技術的条件の底の底に、儼然《げんぜん》として鎮座している。もちろん僕はここで、時処を超え、人情を超え、世相を毛色を超えて、一あって二あるべからざる原物の異常な双生児として生を享《う》ける――そういう達人の訳業について語るのではない。もとよりこのような飜訳があり得ないとは言えない。一世紀に一つ、三世紀に一つ、いやしくも天才的事情がこの世に偶発し得るかぎりは、ないとは言えない。が、僕ごとき凡庸の凡なる者の飜訳――締切に追われ、米櫃《こめびつ》に責められ、脱稿の目あても立たぬうちから校正が山を積み、君いくら苦労したって誰も君の作とは思っちゃ呉《く》れんよと友人に笑われ、すらすら読めるから不可《いか》んと叱られ、ぎっくりしゃっくりしてるから感心だと褒められ――無我無中のうちに高速度印刷機から吐き出されて万事休する、世の常の飜訳にしたところで、所詮は道は一つである。
 這般《しゃはん》の理を明《あきら》かにして、いわば飜訳の骨法ともいうべきものを一挙にして裁断した文句が、『玉洲画趣』の中に見出される。曰《いわ》く、
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「古画を模写し又は諸の真物を写すに、悉く其形に似む事を求むる時は清韵生じ不申候。又米元章、黄子久の如き清雅なる法にても、俗人用ひ候へば俗気生じ、馬遠、夏珪が如き俗法にても高人用ひ候へば、清
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