ど露わになるのである。このような叙述が二十頁と重なったら、卒読し得る人はよもやあるまい。しかもこれを用言形に書き直すことは、内容的にいって到底望むべくもないのである。

 音律という問題にことを限れば、今度は手近なロシヤ畠にも恰好《かっこう》な例を持ち合わせている。これには幸いジイドの協力に成るフランス訳が手許にあるので好都合である。プーシキンの短篇『スペードの女王』の一節であるが、原文は極めて凝縮されながら、しかも平明|暢意《ちょうい》のプーシキン一流の達文である。訳者の心は専らこれらの特質を写すことに注がれた。
[#ここから2字下げ]
≪〔Par ce me^me escalier, songeat−il, il y a quelque soixante ans, a` pareille heure, en habit brode', coiffe' a` l'oiseau royal[#「l'oiseau royal」は斜体], serrant son tricorne contre sa poitrine, se glissait furtivement dans cette me^me chambre un jeune et heureux amant...〕≫
「この梯子《はしご》を伝わって」と彼は考えた、「六十年の昔には、それも丁度この刻限に、粋《いき》な上衣《うわぎ》を裾長《すそなが》に王鳥|髷《まげ》した果報者が、三角帽を抱きしめ抱きしめ、やっぱりあの寝間へかよったものだろう。……」
[#ここで字下げ終わり]
 実をいうと、このフランス訳は忠実のあまり些か間伸びがして、必ずしも原文の凝縮を再現しているとは言いがたいが、それはとにかくこの和訳のみじめさを見て頂きたい。一、二の語の言い換え、また全体として妙に時代がかった措辞は暫《しばら》く問わぬにしても、時に破格は交《まじ》えながら、しかも根底にはまさしく七五の律を踏んで、それがこのくだりを芝居の台詞がかったものにし、みごとに散文精神を踏みにじっているのだ。われながら弁解の余地もない邪道である。
 例えば谷崎潤一郎氏の口語による文章は、非常に息の長いものであるが、また純粋に散文的な一種の音律に富むことは周知のとおりである。しかしもし現代の口語文をできるだけ凝縮させ、しかもこれに音律を与えようと企てるとき、七五調又はこれに近似の定形律に陥らずに済むか済まぬか、答は恐らく現在のところでは否であろう。僕は念のため或る言語学者に質《ただ》してみたことがあるが、彼もやはりそれが日本語の本質だと答えた。では日本語は本質的に散文語ではないのか。これは恐らく、日本の言語の全般にわたり、且《か》つ全歴史にさかのぼって、慎重に考慮されねばならぬ問題であるだろう。
 抽象性の問題にせよ、散文音律の問題にせよ、これは必ずしも日本語にとって病疾ではないのかも知れぬ。ただこの今日のわれわれの口語というものが発生以来なお日が浅く、且つ発祥地たる東京が不幸にしてあらゆる方言の奇怪な雑居地帯であったため、謂わばまだ白湯《さゆ》がねれていず、散文という結構なお茶を立てるには適せぬだけの話かも知れぬ。いずれにせよ、鉄瓶《てつびん》であるか白炭であるかは知らね、柄にもない風流な役目が、現在のところ飜訳家の肩にのしかかっていることは否めないと思う。
[#地から2字上げ]6.※[#ローマ数字3、1−13−23].1936
[#地から1字上げ](発表紙未詳)



底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年5月2日第1刷発行
   2006(平成18)年3月16日改訂第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第六巻」文治堂書店
   1976(昭和51)年発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2−67)と「≫」(非常に大きい、2−68)に代えて入力しました。
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2008年5月20日作成
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