「。
だがいくら馬鹿げているからと云《い》って、ここに飜訳という仕事の免るべからざる原理がある以上、どんな飜訳にしろよかれ悪しかれ、この務めを果しているに違いない。そしてそこに色々な悲喜劇が演ぜられることも致し方ない。嘗《かつ》てあるフランスの作家のものが某名家の訳で一世を風靡《ふうび》し、いわゆる新興芸術派の一部に浅ましい亜流を輩出したとき、わが畏友《いゆう》吉村鉄太郎がひそかに歎《なげ》いたことがある、――「あの作家がもし原語で読まれていたのだったら、ああいう見っともない事にはならなかっただろう」と。これはなにも某名家の訳そのものを云為《うんい》したのでも何でもない。世の飜訳というもののどうにもならぬ運命を、はかない皮肉に託して述べただけの話である。一場の譬話《たとえばなし》に過ぎないけれど、その曳《ひ》く影は意外に深い。
飜訳遅疑の説の成りたつ足場は案外にがっしりしていて、実のところ手も足も出ない感じである。それはよく言われる「等量」の問題などの技術的条件の底の底に、儼然《げんぜん》として鎮座している。もちろん僕はここで、時処を超え、人情を超え、世相を毛色を超えて、一あって二あるべからざる原物の異常な双生児として生を享《う》ける――そういう達人の訳業について語るのではない。もとよりこのような飜訳があり得ないとは言えない。一世紀に一つ、三世紀に一つ、いやしくも天才的事情がこの世に偶発し得るかぎりは、ないとは言えない。が、僕ごとき凡庸の凡なる者の飜訳――締切に追われ、米櫃《こめびつ》に責められ、脱稿の目あても立たぬうちから校正が山を積み、君いくら苦労したって誰も君の作とは思っちゃ呉《く》れんよと友人に笑われ、すらすら読めるから不可《いか》んと叱られ、ぎっくりしゃっくりしてるから感心だと褒められ――無我無中のうちに高速度印刷機から吐き出されて万事休する、世の常の飜訳にしたところで、所詮は道は一つである。
這般《しゃはん》の理を明《あきら》かにして、いわば飜訳の骨法ともいうべきものを一挙にして裁断した文句が、『玉洲画趣』の中に見出される。曰《いわ》く、
[#ここから2字下げ]
「古画を模写し又は諸の真物を写すに、悉く其形に似む事を求むる時は清韵生じ不申候。又米元章、黄子久の如き清雅なる法にても、俗人用ひ候へば俗気生じ、馬遠、夏珪が如き俗法にても高人用ひ候へば、清
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング