やれという話になったが、実をいうとこれはちょっと困る。苦心談は要するに自慢ばなしだ。お座敷|天婦羅《てんぷら》にしたところで、長い箸《はし》でニューッとつまんで出される度に能書がついたのでは、お座も胃の腑《ふ》も冷めてしまう。いわんや僕なんかの板前においてをやだ。いずれ僕もあと三十年もしたら浴衣《ゆかた》がけで芸談一席と洒落《しゃれ》る気になるかも知れないが、今のところはこの不細工な割烹着《かっぽうぎ》を脱ぐつもりはない。
で問題を少しそらして、一般に飜訳のむずかしさとでもいったことについて、少しばかり書いてみたい。正直のところ僕は、飜訳という仕事がだんだん辛くなって来ている。あながちお年のせいでも、目が肥えてきたせいでもあるまいが、とにかく近頃は一行訳すにも、飜訳という仕事の不自然さ不合理さが鼻についてやり切れない。それで、たまに飜訳をやりだしても、一晩徹夜して三枚なんていう酷《ひど》いことにもなりがちだ。そう凝っていたのじゃ間職に合うまい、と云《い》ってくれる友人がある。大そう御苦心で、さぞ名訳が……と迷惑そうにおだててくれる編集者もある。だがこっちは、別に凝りも苦心もしていない
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