飜訳のむずかしさ
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)飜訳《ほんやく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お座敷|天婦羅《てんぷら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和二十五年八月、「書物」)
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飜訳《ほんやく》文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹が空《す》いているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞《てんてこまい》で、材料の吟味はもとより、ろくろく庖丁《ほうちょう》も研ぐひまがないという景気になる。つまり濫訳《らんやく》の弊が生じるわけだ。もっともこれは、何も飜訳文芸に限った話ではない。需要の盛大が粗製濫造の弊を伴《とも》なわないで済むのは、よほど文化の根づきの深い国のことだろう。
まあそんな騒ぎの飛ばっちりで、僕にも一つ板前の苦心談をやれという話になったが、実をいうとこれはちょっと困る。苦心談は要するに自慢ばなしだ。お座敷|天婦羅《てんぷら》にしたところで、長い箸《はし》でニューッとつまんで出される度に能書がついたのでは、お座も胃の腑《ふ》も冷めてしまう。いわんや僕なんかの板前においてをやだ。いずれ僕もあと三十年もしたら浴衣《ゆかた》がけで芸談一席と洒落《しゃれ》る気になるかも知れないが、今のところはこの不細工な割烹着《かっぽうぎ》を脱ぐつもりはない。
で問題を少しそらして、一般に飜訳のむずかしさとでもいったことについて、少しばかり書いてみたい。正直のところ僕は、飜訳という仕事がだんだん辛くなって来ている。あながちお年のせいでも、目が肥えてきたせいでもあるまいが、とにかく近頃は一行訳すにも、飜訳という仕事の不自然さ不合理さが鼻についてやり切れない。それで、たまに飜訳をやりだしても、一晩徹夜して三枚なんていう酷《ひど》いことにもなりがちだ。そう凝っていたのじゃ間職に合うまい、と云《い》ってくれる友人がある。大そう御苦心で、さぞ名訳が……と迷惑そうにおだててくれる編集者もある。だがこっちは、別に凝りも苦心もしていないのだから困るのである。徹夜の時間の大半は、今いった不自然感、不合理感との組打ちのうちに、ただ空《むな》しく流れているだけなのだから。こうなるともう何のことはない、一種の脅迫観念だ。
世間に、横のものを縦に直す、という憎まれ口がある。けだし飜訳という仕事のからくりをずばりと突いた名言である。なるほど飜訳はつまるところ、It is a book をIt is a bookと書きかえるだけの仕事に過ぎないかも知れない。至極ごもっともな話ではあるが、どうやらわれわれは、この名言の適切さにいい気持になった余り、その底にひそんでいる重大な悲劇に気がつかない傾向があるようだ。横のものを縦に直す、ということが、実は、横坐標に盛られた或る数値を縦坐標に盛り直すという飛んでもない奇術であることに、存外気がつかずにいるわけである。
Traduttore, traditore. というイタリアの古い警句があるそうだ。その意味は、飜訳者は裏切り者、ということだ。ところが、そう日本語に直したのでは、やはり申訳《もうしわけ》のない裏切りの罪を犯すことになる。なぜなら原句は trad を頭韻とし、tore を脚韻とする大そう粋《いき》な駄じゃれだからである。まあ一種の語呂合せみたいなものであり、それを一概に「飜訳者は裏切り者」と心得て畏《おそ》れ謹《つつ》しんだのでは、この名句の発案者の折角の笑いが消し飛んでしまう。含蓄されている洒脱味が失せてしまう。いささか苦しいが、飜訳者《ホンヤクシャ》は叛逆者《ハンギャクシャ》とでも言い換えれば、少しは洒落のひびきが通じようというものである。ただしそうすると、下の句が耳遠くなって、意味の通りが悪くなる。飜訳という仕事は畢竟《ひっきょう》するに、こっちを立てれば向こうが立たぬ千番に一番の兼合いと心得れば、まず間違いはなさそうだ。
チェーホフも同じような毒舌を「手帳」のなかで書いている。それは「ペレヴォッチクはポドリャッチクの誤植」というので、こう仮名で書いてみても、頭韻と脚韻の関係ははっきり分るだろう。意味は「訳者とあるは請負師の誤植」だが、なるほどそれで一応の意味は通じても、肝腎の洒落の方はさっぱりぴんと来ないことになる。これなど極端な例のようだが、この種の困難は単に詩歌の飜訳の場合ばかりでなく、およそ飜訳という仕事があり続けるかぎり、ぜひとも背負わな
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