ければならぬ不幸な宿命である。
文芸作品は、せんじつめれば人間精神の自由な play(遊び、つまり躍動)だ。そこで縄跳びの縄の役目をつとめるのが、つまり言葉なのだが、飜訳という仕事にとって、およそこの言葉という縄をとび越えるほど厄介なことはない。そこでやむを得ず、色んな便法が講じられることになる。その一例が、単色版式飜訳という方法だ。
それを一口にいうと、飜訳者は模写だとか原色版だとか何だとかいう身の程知らずな野心を起《おこ》さずに、写真屋の役割で満足しろということになる。つまり色だの音だのには目をつぶり耳をふさいで、意味だけを忠実に伝えろというわけである。もっとも今日《こんにち》では既にカラー・フィルムも出現しているから話は別だが、そもそも先行条件として、絞りとか照明とかフィルターの選択とか露出の時間とか現像の技術とか、さまざまな人為的操作がいることは誰だって知っている。ただレンズの確かさとかピントの正しさだけを頼みにしていたのでは、報道写真一枚まんぞくに撮れはしない。そんな事情を一切無視して、さも自分が精巧なレンズにでもなったつもりでアグラをかいているのが、世上の単色版式飜訳家どもである。
今年のはじめ、ある飜訳劇を見物したら、ある幕で姉娘が妹娘を慰めながら、「私はあなたを高く評価します」と言った。電光石火、思わず耳を疑ったほどの名セリフである。失笑の声がそこここで聞えた。また最後の幕で、ある青年が任地を離れてゆくに当って、「さよなら、樹木たち!」と木立に向って呼びかけた。これまたシンミリしたその場面に一種異様な効果をあたえ、見物《けんぶつ》はげらげら笑いだした。見物が笑ったから悪いというのではない。もともと喜劇のつもりで原作者は書いているのだから、見物が笑ってくれれば有難いみたいなものだが、問題はその笑い所である。生半可な直訳口調からくる可笑《おか》しみ、そんなくすぐりを狙《ねら》って原作者は芝居を書いたのではなかった。ところが素朴な訳者は原文に忠実なあまり、直訳口調を連発して無用の笑いを強制してしまったのである。
あんまりレンズを信用しすぎると、ときどきこんな喜劇がおこる。いずれ精巧無比な飜訳機械が発明される日まで、飜訳者はやはり善意の(まさか悪意のではあるまい)叛逆者でありつづけるよりほかに途《みち》はなさそうだ。
[#地から1字上げ](昭和二十五年八月、「書物」)
底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年5月2日第1刷発行
2006(平成18)年3月16日改訂第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第六巻」文治堂書店
1976(昭和51)年発行
初出:「書物」
1950(昭和25)年8月
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2008年5月30日作成
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