百姓マレイ
フョードル・ドストエフスキー
神西清訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)復活祭《ふっかつさい》
:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少年|時代《じだい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)荒れ地[#「荒れ地」に傍点]
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そのとき、わたしは、まだやっと九つでした……いやそれよりも、わたしが二十九の年のことから話を始めたほうがいいかもしれません。
それは、キリスト復活祭《ふっかつさい》の二日めのことです。もう陽気《ようき》も暖《あたた》かで、空はまっさおに晴《は》れわたり、太陽《たいよう》は高いところから、ぽかぽかと暖かな光りをきらめかせていましたが、わたしの心は、まっ暗《くら》でした。わたしは牢屋《ろうや》のうらをぶらぶら歩きながら、がっしりした監獄《かんごく》の杭《くい》を一本一本かんじょうしながらながめていました。この杭をかぞえるのは、まえからわたしのくせでしたが、そのときは、どうもあまり気がすすみませんでした。監獄の中でも、復活祭はきょうでもう二日めで、お祭《まつ》りのおかげで、囚人《しゅうじん》たちは、まい日させられるしごとにも出て行かず、朝からお酒《さけ》を飲んでよっぱらったり、あっちこっちのすみでは、ひっきりなしに、言いあいやけんかが始まっていたのです。なんだか、があがあいやな歌《うた》をわめきたてたり、こっそり寝床《ねどこ》の板《いた》の下にかくしてカルタをしたり、何かとんでもないらんぼうなことをして、なかまの囚人《しゅうじん》たちにふくろだたきのめにあわされ、あげくのはて、すっかりまいってしまい、頭《あたま》からすっぽり毛皮《けがわ》のきものをかぶせられたまんま、板の寝床にのびている囚人がもう二三人もいるのです。こんなことが、このお祭《まつ》りの二日のあいだに、わたしをすっかりまいらせてしまったのです。いったいわたしは、まえから、人がよっぱらって大さわぎをするたびに、いつもいやでいやでたまらなかったのですが、牢屋《ろうや》の中では、なおさらやりきれないのでした。お祭りだというので、いつものように役人《やくにん》は牢屋の中を見まわりにもこないし、部屋《へや》の検査《けんさ》もされず、酒《さけ》を持ちこむのも、おおめに見られていたのです。
とうとう、わたしは、むらむらと腹《はら》がたってきました。ところが、そのときふと、ポーランド人の囚人に出あったのです。その男は、暗《くら》い顔《かお》つきでわたしを見ましたが、その目はぎらりと光り、くちびるはぶるぶるふるえだしました。
「ちぇっ、あのごろつきどもめ!」と、くいしばった歯《は》のあいだからはきだすように小声でそうつぶやくと、そのままわたしのそばを通りすぎて行きました。
わたしは、牢屋の中へひきかえしました。じつは、つい十五分ほどまえには、どうにもがまんがならなくて、顔色を変《か》えて外《そと》へとびだしたばかりなのですが、――というのは、ちょうどそのとき、強《つよ》そうな百姓《ひゃくしょう》が六人がかりで、よっぱらったダッタン人のガージンをやっつけようと、いっせいにとびかかってなぐり始めたからです。そのひどいなぐりようときたら、お話にも何もなりません。あんなめにあわせたら、らくだだって死《し》んでしまう。だが、あいてのダッタン人はおそろしく力の強い男で、めったにへたばるようなやつじゃない。だからなぐるほうも、安心《あんしん》して気がすむまでなぐりつづけたというわけなのです。――今わたしが部屋にもどってみると、そのさわぎもすっかりおさまって、すみっこの寝床の上に死んだようになって、気の遠くなったダッタン人が寝かされていました。みんなはそのそばをだまったままよけて通るのでした。だれでも心の中では、なあに、あすの朝になったら気がつくだろうさ、と思いこんではいるのですが、「だが、なんともわからないぞ、あんなにやっつけられたんじゃ、ひょっとしたら死《し》ぬかもしれねえぜ。」とでも言いたそうな顔《かお》つきでした。
わたしは、人をかきわけて、鉄格子《てつごうし》のはまった窓《まど》に向かった自分の場所《ばしょ》へたどりつくと、両手《りょうて》を頭《あたま》の下へあてがってあおむけにごろりと寝《ね》て、目をつぶりました。わたしはこうして寝ころんでいるのが好《す》きでした。だって、寝ている人にかまう者《もの》はないし、そのあいだに、いろいろなことを頭に浮《う》かべて楽《たの》しんだり、考えごともできるからです。けれどわたしは、今はそれどころではありませんでした。胸《むね》はどきどきして、耳には、「ちぇっ、あのごろつきどもめ!」という、ポーランド人のさっきのことばがひびくのでした。
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