そのうちに、だんだん心がしずまってきて、いつのまにか、ずっとむかしの思い出にひたり始めました。
 どうしたはずみか、その日、ふと心に浮かびあがったのは、まだやっと九つのころの、わたしの少年|時代《じだい》のことです。それも、わたしがもうすっかり忘《わす》れてしまっているはずの、ほんのひとときのことでした。
 わたしの家《いえ》の領地《りょうち》だった村で暮《く》らしたある年の八月のことです。それは、さわやかに晴《は》れわたった日でしたが、風があって、すこし寒《さむ》いくらいでした。夏ももうおわりに近く、わたしはまもなくあのモスクワの町へ帰って、また、ひと冬じゅうフランス語《ご》を勉強《べんきょう》しなければならないのです。それを考えると、この村を去《さ》るのが残念《ざんねん》でたまりませんでした。わたしは打穀場《だこくば》のうらてをぬけて谷《たに》へくだり、荒《あ》れ地のほうへのぼって行きました。谷の向こうがわから森のところまでずっとつづいている、こんもりしたたけの短《みじか》い林を、村の人たちは荒れ地[#「荒れ地」に傍点]と呼《よ》んでいたのです。やがて、わたしがその林のしげみをわけてずんずん奥《おく》へはいって行くと、そこからほど近い林のあいだのあき地で、百姓《ひゃくしょう》がたったひとりで畑《はたけ》を起している音が聞えてきました。わたしは、その百姓のたがやしているのが急《きゅう》な山畑《やまはた》で、馬が鋤《すき》をひいて歩くのにはつらい場所だということを知っていました。じっさいわたしの耳には、ときどき、「ほれ、よう!」という百姓のかけ声がつたわってくるのでした。
 わたしは、村の百姓は、ほとんどみんな知っていましたが、今たがやしているのが、その中のだれなのかわかりませんでした。それに、そんなことはどうだってよかったのです。というのは、わたしは自分のしごとに夢中《むちゅう》になっていましたから。つまりわたしは、かえるを打つために使うくるみの枝《えだ》をおろうと、一生《いっしょう》けんめいでした。くるみの枝でつくったむち[#「むち」に傍点]ときたら、きれいで、よくたわんで、とても白《しら》かばの枝なんか、くらべものにならないのです。それだけじゃありません、いろんなかぶと虫《むし》にもわたしは気をとられていました。わたしは採集《さいしゅう》にかかりましたが、なかなかきれいなのがいました。わたしはまた、小さくてすばしっこい、黒いぶちのある赤黄《あかき》いろいとかげまで好《す》きでしたが、へびは気味《きみ》がわるかった。もっともへびは、とかげのようにちょいちょい出っくわしはしませんでした。きのこは、そのへんにはめったにないので、きのことりには、白かばの森へ行かなければなりません。そこでわたしは、出かけようとしました。わたしは一生のうちで、あの森くらい好きだった場所《ばしょ》はありません。きのこがある、野いちごがある、かぶと虫もいれば、小鳥もいる。針《はり》ねずみ、りす、それから、わたしの好きで好きでたまらなかったあのしめっぽい落葉《おちば》のにおい。……わたしは今これを書きながら、白かばの林のにおいをしみじみかぐような気持がします。そういう感《かん》じは、一生のあいだ、いつまでも消《き》えずに残《のこ》っているものです。
 するとふいに、あたりの深い静《しず》けさのうちに、わたしははっきりと、「おおかみがきたよう!」という悲鳴《ひめい》を聞きました。わたしは、きゃっと叫《さけ》ぶと、こわさのあまり夢中になって、ありったけの声でわめきたてながら、あき地で畑《はたけ》をたがやしていた百姓《ひゃくしょう》のほうへ、いっさんにかけだしました。
 それは、わたしのうちの百姓のマレイだったのです。そんな名があるかどうか知りませんが、とにかくみんなが、かれのことをマレイと呼《よ》んでいました。年は五十くらいでしょうか。がっしりした、かなり背《せ》の高い、ひどく白髪《しらが》のまじった赤ちゃけたひげをぐるりと顔《かお》いちめんにはやした百姓です。わたしは、それまでマレイを知ってはいましたが、一度も口をきいたことはありませんでした。わたしの叫び声を聞きつけると、百姓はわざわざ馬をとめました。そこへとびこんで行ったわたしが、片手《かたて》でマレイの鋤《すき》に、もう一方《いっぽう》の手でその袖《そで》にしっかりしがみついたとき、マレイは、やっと、わたしのただごとでないようすを見てとりました。
「おおかみがきた!」と、わたしは息《いき》をきらしながら叫《さけ》びました。
 百姓《ひゃくしょう》は、ひょいと首《くび》を起して、思わず、あたりを見まわしました。ほんのちょっとのあいだ、わたしの言うことにつられたのです。
「どこにおかかみがね?」
「そう
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