どなったんだよ……。だれだか今、≪おおかみがきた≫ってどなったんだよ……」と、わたしはよくもまわらない舌《した》で、やっと言いました。
「やれやれ、何かと思ったら。なんのおおかみがいるもんかね、そりゃ、そら耳というものさね、そうとも! なんの、このへんにおおかみがいますもんかね!」と、マレイはわたしをはげますように、つぶやきました。
 でもわたしは、からだじゅうぶるぶるふるえながら、ますますしっかりと、マレイにしがみつきます。きっと、まっさおな顔《かお》をしていたのにちがいありません。マレイは不安《ふあん》そうな笑《わら》いを浮《う》かべてわたしの顔を見ていました。今にも、わたしがどうかなってしまいはしないかと、それが心配《しんぱい》でたまらないらしいのです。
「ほんに、さぞたまげたこったろうになあ、やれやれ!」と、首をふりました。「もういいさ、なあ坊《ぼう》。坊は強《つよ》いぞ、なあ!」
 百姓は片手《かたて》をのばすと、ふいにわたしのほおをなでました。
「さ、もういい、もういい。キリストさまがついてござるだよ、十|字《じ》をきりなされ。」
 けれどわたしは、十字をきりませんでした。わたしのくちびるの両《りょう》はしは、ひくひくとひっつれ、それがことにマレイの心をうったようです。百姓は、そっと黒い爪《つめ》をした泥《どろ》まみれの太《ふと》い指《ゆび》をのばして、まだひくひくひっつれているわたしのくちびるに軽《かる》くさわりました。
「ほんにほんに、なあ。」と、マレイは、なんだか母親《ははおや》のような、ゆっくりと長いほほえみを浮かべて、わたしに笑いかけました、「かわいそうに、なんとしたことじゃやら、ほんになあ、やれやれ!」
 わたしは、やっとのことで、おおかみなんていなかったんだ、あの「おおかみがきた」という叫《さけ》び声は、わたしのそら耳だったのだ、とわかりました。でも、あの悲鳴《ひめい》は、はっきりありありとわたしには聞えたのですが。――そういうことは、まえにも一二度はあったのでした。
「じゃ、ぼく行くね。」と、わたしはまるで相談《そうだん》するように、おずおずとマレイを見あげながら言いました。
「さあさあ、行きなされ、わしがこうして、うしろから見てたげましょうわい。このわしが、なんの坊《ぼう》をおおかみにやるものかね!」と、百姓《ひゃくしょう》は、あいかわらず母親《ははおや》のようなやさしいほほえみで笑《わら》いかけながら、そうつけたしました。「な、キリストさまが、ついておいでじゃ、さあ、行きなされや。」
 そして、片手《かたて》でわたしのかわりに十|字《じ》をきり、それから、自分も十字をきりました。
 わたしは、十|歩《ぽ》ごとにうしろをふりかえりながら歩いて行きました。マレイはわたしが歩いて行くあいだ、ずっと自分の馬といっしょに立ったまんま、わたしのうしろを見送っていてくれました。わたしがふりかえるたびに、うなずいてみせるのでした。じつは、わたしは、あんなにふるえあがったのが、今ではなんだかマレイにすこし恥《は》ずかしくなりました。けれど、それでも、谷《たに》の斜面《しゃめん》をのぼって、とっつきの納屋《なや》へ出るまでは、やっぱり、おおかみをこわいこわいと思いながら歩いて行ったのです。でも、そこまできたら、こわいなぞという気持は、すっかり消《け》しとんでしまいました。すると、そのときふいに、どこからやってきたのか、うちの飼《か》い犬のヴォルチョークが、わたしにとびつきました。犬がきたので、わたしはもうすっかり元気《げんき》になって、おしまいにもう一ぺん、マレイをふりかえってみました。その顔《かお》は、もうはっきりとは見えませんでしたが、やっぱりやさしくほほえみながら、こちらへ向かってうなずいているような気がします。わたしが手をふると、マレイのほうでも手をふって、それから馬を引き始めました。
「ほれ、よう!」また、マレイのかけ声が遠くつたわってきて、馬は鋤《すき》を引き始めました。

 こんなことが、みんな、どうしたわけか一度にぱっとわたしの心によみがえってきました。おどろいたことには、こまかいことまで、とてもはっきりと、浮《う》かんできたのです。わたしは、急《きゅう》にはっとして、板《いた》の寝床《ねどこ》の上に起きなおりました。そのわたしの顔には、今でもおぼえているのですが、まだ静《しず》かな思い出のあのほほえみが消《き》えずに残《のこ》っていました。ほんの一分ばかり、わたしは、まだ思い出にひたっていたのでした。
 わたしはその日、マレイの畑《はたけ》からうちにもどっても、あの「できごと」のことは、だれにも話しませんでした。それに、できごとというほどのことでもないではありませんか? マレイのことだって、そのこ
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