どなったんだよ……。だれだか今、≪おおかみがきた≫ってどなったんだよ……」と、わたしはよくもまわらない舌《した》で、やっと言いました。
「やれやれ、何かと思ったら。なんのおおかみがいるもんかね、そりゃ、そら耳というものさね、そうとも! なんの、このへんにおおかみがいますもんかね!」と、マレイはわたしをはげますように、つぶやきました。
 でもわたしは、からだじゅうぶるぶるふるえながら、ますますしっかりと、マレイにしがみつきます。きっと、まっさおな顔《かお》をしていたのにちがいありません。マレイは不安《ふあん》そうな笑《わら》いを浮《う》かべてわたしの顔を見ていました。今にも、わたしがどうかなってしまいはしないかと、それが心配《しんぱい》でたまらないらしいのです。
「ほんに、さぞたまげたこったろうになあ、やれやれ!」と、首をふりました。「もういいさ、なあ坊《ぼう》。坊は強《つよ》いぞ、なあ!」
 百姓は片手《かたて》をのばすと、ふいにわたしのほおをなでました。
「さ、もういい、もういい。キリストさまがついてござるだよ、十|字《じ》をきりなされ。」
 けれどわたしは、十字をきりませんでした。わたしのくちびるの両《りょう》はしは、ひくひくとひっつれ、それがことにマレイの心をうったようです。百姓は、そっと黒い爪《つめ》をした泥《どろ》まみれの太《ふと》い指《ゆび》をのばして、まだひくひくひっつれているわたしのくちびるに軽《かる》くさわりました。
「ほんにほんに、なあ。」と、マレイは、なんだか母親《ははおや》のような、ゆっくりと長いほほえみを浮かべて、わたしに笑いかけました、「かわいそうに、なんとしたことじゃやら、ほんになあ、やれやれ!」
 わたしは、やっとのことで、おおかみなんていなかったんだ、あの「おおかみがきた」という叫《さけ》び声は、わたしのそら耳だったのだ、とわかりました。でも、あの悲鳴《ひめい》は、はっきりありありとわたしには聞えたのですが。――そういうことは、まえにも一二度はあったのでした。
「じゃ、ぼく行くね。」と、わたしはまるで相談《そうだん》するように、おずおずとマレイを見あげながら言いました。
「さあさあ、行きなされ、わしがこうして、うしろから見てたげましょうわい。このわしが、なんの坊《ぼう》をおおかみにやるものかね!」と、百姓《ひゃくしょう》は、あいかわ
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