ざいます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれてをりましたが、この松王さまが(やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きませう――)、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であつたのでございます。母親にたづねてみますれば色々その間のいきさつも分明《ぶんめい》いたしませうが、そのやうな物好き心が何の役にたちませう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃ほひ、太閤様にぢきぢきの御申入れがあつたとやら無かつたとやら、素《もと》より陪臣《ばいしん》のお家柄であつてみれば、そのやうな望みの叶《かな》へられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
わたくしとしましては只《ただ》そのお心根がいぢらしく、おん痛はしく、お頼みにまかせて文《ふみ》使ひの役目を勤めてをつたのでございます。お目にかかる折々には、打融《うちと》けられた磊落《らいらく》なお口つきで、「室町が火になつたら、俺が真すぐ駈《か》けつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ」などと、仰《おお》せになつたものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思はれましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山《つきやま》のあたりからこつそり忍んで参られることもございました。そのやうな折節には、母親のひそかな計らひで、片時の御対面もあつたやうでございました。また時によつては、「文庫を燃させなんだらその褒美《ほうび》に、姫をさらつて行くからさう思へ」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどさうなれかしと望んだことで御座いませう。渦を巻く猛火《みょうか》のなかを、白い被衣《かつぎ》をかづかれた姫君が、鼠《ねずみ》色の僧衣の逞《たくま》しいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐつて彼方《かなた》の闇にみるみるうちに消えてゆく、そのやうな夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立《こだち》のざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入つたものでございました。悲しいことに、それもこれも現《うつつ》とはなりませんでした。尤《もっと》もわたくしの眼《まなこ》の中にゑがいた火の色と白と鼠の取り合はせは、後日まつたく思ひもかけぬ相《すがた》で現はれるには現はれましたが、それはまだ先の話でございます。
忘れも致しません、五月二十六日の朝まだき、おつつけ寅《とら》の刻でもありましたらうか、北の方角に当つて時ならぬ太鼓《たいこ》の磨り打ちの音が起りました。つづいてそれがどつと雪崩《なだれ》を打つ鬨《とき》の声に変ります。わたくしは殆《ほとん》どもう寝間着姿で、寝殿《しんでん》のお屋敷に攀《よ》ぢ登つたのでございます。暫《しばら》くは何の見分けもつきませんでしたが、やがて乾方《いぬい》に当つて火の手が上ります。その火が次第に西へ西へと移ると見るまに、夜もほのぼのと明けて参りました。見れば前《さき》の関白様(兼良男|教房《のりふさ》)をはじめ、御一統には悉皆《しっかい》お身仕度を調へて、お廂《ひさし》の間にお出ましになつてをられます。東の御方(兼良側室)はじめ姫君、侍女がたは、いづれも甲斐々々《かいがい》しいお壺装束《つぼそうぞく》。わたくしも、かう成りましては腹巻の一つも巻かなくてはと考へましたが、万が一にも雑兵《ぞうひょう》乱入の砌《みぎり》などには却《かえ》つて僧形《そうぎょう》の方が御一統がたの介抱を申上げるにも好都合かと思ひ返し、慣れぬ手に薙刀《なぎなた》をとるだけのことに致しました。何せこの歳まで、本物の戦さと申すものは人の話に聞くばかり、今になつて顧みますと可笑《おか》しくなりますが、小半時ほどは胴の顫《ふる》へがとまりません。いやはやとんだ初陣《ういじん》ぶりでございました。
そのうちに物見に出ました青侍《あおさぶらい》もぼつぼつ戻つて参ります。その注進によりますと、今日の戦さの中心は洛北《らくほく》とのことで、それも次第に西へ向つて、南一条大宮のあたりに集まつてゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が移りますにつれどうしてそんな事ではなく、やがて東のかた百万遍《ひゃくまんべん》、革堂《こうとう》(行願寺)のあたりにも火の手が上ります。これは稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》艮方《うしとら》へ寄つてをりますので、折からの東風に黒々とした火煙は西へ西へと流れるばかり、幸ひ桃花坊のあたりは火の粉《こ》もかぶらずにをりますが、もし風の向きでも変つたなら、炎の中をどうして御一統をお落し申さうかと、只《ただ》もう胸を衝《つ》かれるばかりでございます。頼みの綱は兼々《かねがね》お約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思召《おぼしめ》してか、或ひはまた相国寺の西にも東にも火の手の上つてをります有様では、無下《むげ》にその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入つて風は南に変つたとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火焔《かえん》も廬山寺《ろざんじ》あたりの猛火《みょうか》も、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末は悉《ことごと》く白い煙と化して棚びき、その白雲の照返《てりかえ》しでお庭先は、夜どほしさながら明方のやうな妙に蒼《あお》ざめた明るさでございます。殊《こと》に凄《すさ》まじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船岡山《ふなおかやま》から南は二条のあたりまで、一面の火の海となつてをりました。
やうやうにその夜も無事にすぎて、翌《あく》る二十七日には、朝の間のどうやら鬨《とき》の声も小止《おや》みになつたらしい隙《すき》を見計らひ、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中御門《なかみかど》へ、若君姫君は九条へと、青侍《あおさぶらい》の御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思つたが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦の勢《いきおい》がまた盛返《もりかえ》したとの注進も洞《うつ》ろ心に聞きながし、わたくしは薙刀《なぎなた》を杖《つえ》に北の御階《みはし》にどうと腰を据《す》ゑたなり、夕刻まではそのまま動けずにをりました。この日の戦《いくさ》も酉《とり》の終までには片づきまして、その夜は打つて変つてさながら狐《きつね》につままれたやうな静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合はせてみますと、この両日に炎上の仏刹《ぶっさつ》邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるひは洞院《とういん》殿、冷泉《れいぜい》中納言、猪熊《いのくま》殿など、夥《おびただ》しいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向ひの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉皆《しっかい》焼け滅んだとのことでございます。
さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口に糊《こ》する糧《かて》もない難民は大路小路に溢《あふ》れてをります。物とり強盗は日ましに繁《しげ》くなつて参ります。かてて加へて諸国より続々と上つてまゐる東西両陣の足軽《あしがる》と申せば、昼は合戦、夜は押込みを習ひとする輩《やから》ばかり、その荒々しい人相といひ下賤《げせん》な言葉つきと云ひ、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思ひでございました。さうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀《たち》を振りかざし掛声《かけごえ》も猛に、どこやらの邸《やしき》から持ち出したものでございませう、重たげな長櫃《ながびつ》を四五人連れで舁《か》いて渡る足軽の姿などは、一々目にとめてゐる暇《いとま》もなくなります。築地《ついじ》の崩れの陰などでは、抜身《ぬきみ》を片手に女どもをなぐさんでをります浅ましい有様が、ちよつと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸|蔀《しとみ》を蹴破《けやぶ》る物音の、けたたましい叫びと入りまじつて聞えて参ることも、室町あたりでさへ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道《ちくしょうどう》、阿鼻《あび》大城とはこの事でございませう。
そのやうな怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いてをりますうち、六月八日には、遂《つい》に一大事となつてしまひました。その午《うま》の刻ばかりに、中御門猪熊の一色《いっしき》殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近衛《このえ》の町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、忽《たちま》ちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽《あお》られて、上京《かみぎょう》の半ばが程はみるみる紅蓮《ぐれん》地獄となり果てました。火焔《かえん》の近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦《かわら》屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上を這《は》ふ薄い黒煙のなかに太閤《たいこう》様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江家《ごうけ》文庫が、仁平《にんぺい》の昔に焼亡して、闔《とびら》を開く暇《いとま》もなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはり午《うま》の刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町|小路《こうじ》にて止まりました。さうさう、松王様はその夕刻、おつつけ戌《いぬ》の刻ほどにひよつくりお見えになり、わたくしがお怨《うら》みを申すと、
「なに、ついそこの武者の小路で見張つてをつたよ」と、事もなげに仰《おお》せられました。
その日の焼亡はまことに前代未聞の沙汰《さた》で、下《しも》は二条より上《かみ》は御霊《ごりょう》の辻《つじ》まで、西は大舎人《おおとねり》より東は室町小路を界《さかい》におほよそ百町あまり、公家《くげ》武家の邸《やしき》をはじめ合せて三万余宇が、小半日の間《ま》に灰となり果てたのでございます。さうなりますと町なかで焼け残つてゐる場所とては数へるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まつてをりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思ひ切りその翌《あく》る日には前《さき》の関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いづれも夜火でございます。その十八日には洛中《らくちゅう》の盗賊どもこぞつて終《つい》に南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客《げっけいうんかく》の移し納めて置かれました七珍財宝を悉《ことごと》く掠《かす》め取つてしまひます。これも夜火でございましたが、粟田《あわた》口の花頂|青蓮院《しょうれんいん》、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山《ひがしやま》の空を焦がす有様は凄《すさ》まじくも美麗な眺めでございました。
……ああ、由玄どの、今あなたは眉《まゆ》をお顰《ひそ》めなされましたな。いえ、よく分つてをります、美麗だなどと大それた物の言ひやう、さぞやお耳に障《さわ》りませう。神罰もくだりませう、仏罰《ぶつばち》も当りませう、それもよく心得てをります。けれどこの貞阿は実《じつ》に感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れた屍《しかばね》に胆《きも》を冷やし、人間のする鬼畜《きちく》の業《ごう》を眼《まなこ》にするうち、度胸もついて参ります、捨鉢《すてばち》な荒《すさ》びごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行末《ゆくすえ》を思ひわび、或ひは儚《はかな》い夢を空だのみにし、或ひは善きにつけ悪《
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