違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差当《さしあた》つては明日にも、恐らく斎藤|妙椿《みょうちん》のところへであらう、主命で美濃《みの》へ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
 それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛礫《ひれき》であつたのは、去年の夏この土地の法華寺《ほっけじ》に尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹《ひ》いてゐるらしいことであつた。世の取沙汰《とりざた》ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫《しばら》く腰を落着けて、鶴姫の噂《うわさ》が色々とあらぬ尾鰭《おひれ》をつけて人の口の端《は》に上《のぼ》つてゐるのに一驚を喫したが、工合《ぐあい》の悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母《うば》に上《あが》つて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……
 主人の口占《くちうら》から、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無下《むげ》
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