疲れが出たのであらう、傍《かたわ》らの冷えた大|湯呑《ゆのみ》をとり上げると、その七八分目まで一思ひに煽《あお》つて、そのまま座を立つた。風はいつの間にかやんでゐる。厠《かわや》の縁に立つて眺めると、雪もやがて霽《は》れるとみえ、中空には仄《ほの》かな光さへ射してゐる。ああ静かだと貞阿は思ふ。今しがたまで自分の語り耽《ふけ》つてゐた修羅黒縄《しゅらこくじょう》の世界と、この薄ら氷《ひ》のやうにすき透つた光の世界との間には、どういふ関はりがあるのかと思つてみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるといふ何ものかの秘《ひそ》やかな啓《あか》しなのでもあらうか。それでは自分も一応は浄火の界《さかい》を過ぎて、いま凉道蓮台の門《かど》さきまで辿《たど》りついたとでも云ふのか。いや何のそのやうな生易《なまやさ》しいことが、と貞阿はわれとわが心を叱《しか》る。京の滅びなど此《こ》の眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現はれの九牛《きゅうぎゅう》の一毛にしか過ぎまい。兵乱はやうやく京を離れて、分国諸領に波及しようとする兆《きざ》しが見える。この先十年あるひは二十年百年、旧《ふる》いもの
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