には、遂《つい》に一大事となつてしまひました。その午《うま》の刻ばかりに、中御門猪熊の一色《いっしき》殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近衛《このえ》の町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、忽《たちま》ちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽《あお》られて、上京《かみぎょう》の半ばが程はみるみる紅蓮《ぐれん》地獄となり果てました。火焔《かえん》の近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦《かわら》屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上を這《は》ふ薄い黒煙のなかに太閤《たいこう》様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江家《ごうけ》文庫が、仁平《にんぺい》の昔に焼亡して、闔《とびら》を開く暇《いとま》もなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはり午《うま》の刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町|小路《こうじ
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