奥方様とお二人で御座を移されました。御老体のほどを気づかはれたお子様がたのお勧めに従はれたものでございませう。さあさうなりますと、身に余る大役をお請けした上に、大樹とも頼む太閤はおいでにならず、東の御方様はじめお若い方々のみ残られました桃花坊で、わたくしは茫然《ぼうぜん》と致してしまひました。見渡すところ青侍の中には腕の立ちさうな者はをりませず、夜ふけて風の吹き募ります折りなどは、今にも兵《つわもの》どもの矢たけびが聞えて来はしまいか、どこぞの空が兵火に焼けてゐはしまいかと落々《おちおち》瞼《まぶた》を合はす暇さへなく、蔀《しとみ》をもたげては闇夜の空をふり仰ぎふり仰ぎ夜を明かしたものでございました。
 さいはひ五月の末ごろまでは何事もなく過ぎました。とは申せ安からぬ物の気配は日一日と濃くなるばかり。東西両陣の合戦の用意が日ごとに進んで参る有様が手にとるやうに窺《うかが》はれます。その中を、わたくしにとつて只《ただ》一つの心頼みは、あの松王丸様なのでございました。いやさうではございません。すでに御家督をおすべりになつて、蔭凉軒にて御祝髪ののちの、見違へるやうな素円《そえん》さまなのでご
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