。山名方の悪僧が敵に語らはれて懸けた火だと申します。この日の戦さの凄《すさ》まじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄昏《たそがれ》に至つて両軍相引きに引く中を、山名方は打首《うちくび》を車八|輛《りょう》に積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀を埋《うず》むる屍《しかばね》幾千と数知れなかつたとも申してをります。
 さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆舌《ひつぜつ》の及ぶところではございません。早々にお見舞ひの御消息がわたくしに托《たく》せられます。それを懐《ふところ》にわたくしが相国寺の焼跡に立つたのは、翌《あく》る日のかれこれ巽《たつみ》の刻でもございましたらうか。さしも京洛《きょうらく》第一の輪奐《りんかん》の美を謳《うた》はれました万年山相国の巨刹《きょさつ》も悉《ことごと》く焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原に聳《そび》え立つてゐるのみでございます。そこここに死骸《しがい》を収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功徳池《くどくいけ》と申す蓮池《はすいけ》には敵味方の屍がまだ累々《るいるい》と浮いてをりますし、鹿苑院《ろくおんいん》、蔭凉軒の跡と思《おぼ》しきあたりも激しい戦《いくさ》の跡を偲《しの》ばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つは転《まろ》んでゐる始末でございます。物を問はうにも学僧衆はおろか、承仕法師《じょうじほうし》の姿さへ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰塵《かいじん》瓦礫《がれき》の中を掘るやうにして探ねましたが、思へば剣戟《けんげき》猛火のあひだ、そのやうなものの残つてゐよう道理もございません。わたくしは途方に暮れて佇《たたず》んでしまひました。
 その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文を懐《ふところ》にしつつ或《ある》は功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残つた巷《ちまた》々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたつて参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいつて参ります。中でも一入《ひとしお》の涙を誘はれましたのは、細川殿の御曹子《おんぞうし》、六郎殿のおん痛はしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻
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