すことも洵《まこと》にお厳しく、十七年のあいだ嘗《かつ》てお脇を席《むしろ》におつけ遊ばした事がなかったと申します。この御警策の賜物《たまもの》でございましょう、わたくし風情《ふぜい》の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝《たちまさ》って見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚《こうえん》に列《つら》なるものが多々ございました。その中には相国寺《しょうこくじ》のあの桃源|瑞仙《ずいせん》さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱《ていしゅ》の学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であったと伺っております。
 このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児《ちご》を、お二方ともよくよくの御鍾愛《ごしょうあい》のようにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤《たいこう》殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参ったものでございます。そういうお席で、お伴について来られた松王様
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