俺もしんからそう思う。自由だ、元気だ、溌剌《はつらつ》としておる。障子《しょうじ》を明け放して風を入れるような爽《さわや》かさだ。俺は近ごろ足軽《あしがる》というものの髯《ひげ》づらを眺めていて恍惚《こうこつ》とすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗湛《そうたん》もよい蛇足《じゃそく》もよい。だが足軽の顔を御所の襖絵《ふすまえ》に描く絵師の一人や二人は出てもよかろう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、箒《ほうき》を槍《やり》に持ち替えようかと本気で考えてみたが、それを思ってやめてしまった。……
「ではその荒廃乱壊を救うものは何か。差当《さしあた》っては坊主だ。俺は東福で育って管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減|厭《あ》きの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽廃《たいはい》堕落だ。でなければ見事きわまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊塗《こと》せんが為の詩禅一致だ。済世《さいせい》
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