西は近衛《このえ》殿より鷹司《たかつかさ》殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺《さいおんじ》殿、転法輪《てんぽうりん》、三条殿をはじめ、公家《くげ》のお屋敷三十七、武家には奉行《ぶぎょう》衆のお舎《やど》八十ヶ所が一片の烟《けむり》と焼けのぼりました。最早やこうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まったのち、たとえ天下はどのように変ろうとも、かならず学問の飢《かつ》えが来る、古《いにし》えの鏡をたずねる時がかならず来る。あのお文倉《ふみぐら》だけは、この身は八つ裂きになろうとも守り通さずには措《お》かぬと、わたくしは愈々覚悟をさだめ、水を打ったようなしいんとした諦《あきら》めのなかで、深く思いきったことでございました。さりながら、思えば人間の心当てほど儚《はかな》いものもございません。わたくしがそのように念じ抜きました桃華文庫も、まったく思いもかけぬ事故《ことゆえ》から烏有《うゆう》に帰したのでございます。……


 貞阿はほっと口をつぐんだ。流石《さすが》に疲れが出たのであろう、傍《かたわ》らの冷えた大|
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