伝《ことづ》てでもあるかな」とのお答え。「姫君へお返りごとは」と重ねて伺いますと、「いま喋《しゃべ》ったことが返事だ。覚えているだけお伝えするがいい。」そうお言い棄《す》てになるなり、風のように丘を下りて行かれたのでございます。
近江へ往くとは仰《おっ》しゃいましたが、わたくしには実《まこと》とは思われませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひょっとしたらあのまま東の陣にでもお入りになって、斬《き》り死になさるお積りではあるまいかとも疑ってみました。これもそのような気がふと致しただけでございます。いずれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆目《かいもく》わからずなってしまいました。地獄谷の庵室《あんしつ》と仰しゃったのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御|嘲弄《ちょうろう》であったらしく、真蘂西堂《しんずいせいどう》は前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであったのでございます。ちょっと潜《ひそ》かに上洛《じょうらく》されたような噂《うわさ》もありましたので、それを種に人をお担ぎになったのでございましょう。鶴姫様の御|悲歎《ひたん》は申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるいは老若《ろうにゃく》の沙弥喝食《しゃみかっしき》の末々まで、多くは坂下《さかもと》、山上《やまのうえ》の有縁《うえん》を辿《たど》って難を避けておられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまわりました。瑞仙様が景三、周鱗《しゅうりん》の両和尚と御一緒に往っておられます近江の永源寺、あるいは集九様のおられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳《しゅうほう》様のお宿、それに念のため薪《たきぎ》の酬恩|庵《あん》にお籠《こも》りの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方は遂《つい》に分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまいました。
そのうち毘沙門《びしゃもん》の谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなって参ります。明けても暮れても谷の中は喧《かしま》しい蝉時雨《せみしぐれ》ばかり。その頃になりますと、この半年ほど櫓《やぐら》を築いたり塹《ほり》を掘ったりして睨《にら》み合いの態《てい》でおりました東西両陣は、京のぐるりでそろ
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