ひを笑つた。村瀬は彼女の顔を見たが、もう何も言はなかつた。
明かに村瀬は何かを匿《かく》してゐた。彼は子供の執拗《しつよう》さで秘密を守つた。世間から遠ざかつてゐる明子には想像出来ない、何かつまらぬ物に異《ちが》ひなかつた。明子にはそれを強《し》ひて問ひ糺《ただ》す必要もなかつた。一つの事が明子の眼にはつきりしてゐた。それは村瀬が遅れ走《ば》せながら、彼等三人の場面に駈《か》け上るべく何かに鞭《むち》うたれてゐたことである。嵐は三人の上に既に去つてゐた。三人の人間は、ある者は肉体に血紫色の菊の花を着け、ある者は情感の喪服に身をつつんで、それぞれに静穏な秋の日を愉《たの》しんでゐた。その今になつて、村瀬は狂熱の発作に囚《とら》はれた人のやうに取乱してその伝説の中へ、もう廻転し去つてゐる伝説の中へ躍《おど》り込まうとしてゐたのだ。明子ははつきりそれを見た。
村瀬にやつて来たこの危機を見ながら、明子は妙に平静な気持だつた。彼女の歴《へ》て来た苦渋な疲労感が、まだ肉体の一隅に残つてゐて、それが彼女を賢く昂奮《こうふん》から遠ざからせてゐるやうだつた。明子の失はれない平静のなかで情感の炎がゆ
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