膚に酸つぱい匂ひさへ発見してゐた。
 彼女は黒い靴下を椅子《いす》の傍に蛇《へび》のやうにうねうねさせて、窓ぎはに立つた。ひだの無い裳《もすそ》が明子の腿《もも》の線をふとぶとと描いた。彼女は肉体だけで立つてゐる様に見えた。疲れて。
 明子は幼児の幻影を払ひ退《の》けようとして幾度も手のひらを瞼《まぶた》に斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。ときに、彼女は自分の手が幼児を透《とお》すあたりにほの温に触感を手のひらに感じることがあつた。
 彼女が嬰児《えいじ》の形の代りに幼児を空間に見たのは、彼女が未完成の母親だつたからだ。幼児は幾ヶ月かを地上にすごしたかのやうな皮膚を有《も》つてゐた。明子のからだが恢復《かいふく》するにしたがつてこの幼児の幻影も次第に丸やかな完成を見せた。それは憂鬱《ゆううつ》症のあらはれではなかつた。それは寧《むし》ろ母性のふくよかな成長として彼女に影響するやうに見えた。

 村瀬は明子が恢復しはじめた頃から再び手紙を寄越《よこ》すやうになつてゐた。明子の母はまだ過敏な警戒を彼女の身辺に怠《おこた》らずにゐたけれど、村瀬の手紙だけは
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