ひを笑つた。村瀬は彼女の顔を見たが、もう何も言はなかつた。
明かに村瀬は何かを匿《かく》してゐた。彼は子供の執拗《しつよう》さで秘密を守つた。世間から遠ざかつてゐる明子には想像出来ない、何かつまらぬ物に異《ちが》ひなかつた。明子にはそれを強《し》ひて問ひ糺《ただ》す必要もなかつた。一つの事が明子の眼にはつきりしてゐた。それは村瀬が遅れ走《ば》せながら、彼等三人の場面に駈《か》け上るべく何かに鞭《むち》うたれてゐたことである。嵐は三人の上に既に去つてゐた。三人の人間は、ある者は肉体に血紫色の菊の花を着け、ある者は情感の喪服に身をつつんで、それぞれに静穏な秋の日を愉《たの》しんでゐた。その今になつて、村瀬は狂熱の発作に囚《とら》はれた人のやうに取乱してその伝説の中へ、もう廻転し去つてゐる伝説の中へ躍《おど》り込まうとしてゐたのだ。明子ははつきりそれを見た。
村瀬にやつて来たこの危機を見ながら、明子は妙に平静な気持だつた。彼女の歴《へ》て来た苦渋な疲労感が、まだ肉体の一隅に残つてゐて、それが彼女を賢く昂奮《こうふん》から遠ざからせてゐるやうだつた。明子の失はれない平静のなかで情感の炎がゆるやかに燃えつづけてゐた。彼女はもう一ぺん村瀬の肉体を桃色のラムプのやうに燃え立たせようと試みた。静かな桃色の炎のなかにこの青年を眠り込ませようと冀《こいねが》つた。彼女は以前にもまして熱い愛撫《あいぶ》を村瀬に与へた。
明子の優しい心遣ひにもかかはらず、村瀬の狂暴さはつのつて行つた。まるつきり手のつけられない子供のやうに彼は明子のちよつとした事にも反抗した。彼には近頃不眠の夜が続くらしかつた。その後での疲労しきつた睡眠の中で色々な夢を見るらしかつた。夢のことを彼はよく明子に話すやうになつた。だがどれも手足だけに切り離された夢で、大事なところになると彼は急いで菓子を匿《かく》す子供の狡猾《こうかつ》さを取戻した。
――さう、それだけだつたの。
明子がおだやかな言葉遣ひでいつも彼の未完成な夢の話に結末をつけてやつた。村瀬は意地の悪い刺笑を歯に浮べながら黙つてゐた。彼の症状は日ましに悪くなつて行つた。
或る日、明子は到頭《とうとう》決心して、村瀬を旅に連れ出した。彼は珍しく明子の提議には従つた。彼女と一緒に天の幼児もついて来た。
旅が終りに近づきかけた或る朝、村瀬が突然ホテルのベッドの上で喀血《かっけつ》した。
衝立《ついたて》の蔭《かげ》で朝の化粧をしてゐた明子は、彼の叫声《さけびごえ》に愕《おどろ》いて飛び出して来た。白いシイツに血が鋭く鮮紅の箭《や》を射てゐた。はじめ彼女は村瀬が何か鋭利な刃物で自殺をはかつたのだと信じた。
――コップ。コップ。
彼が咳《せ》き入つて叫んだ。明子が枕許《まくらもと》のコップを口に当てがつてやると彼は待ち兼ねたやうに二度目の多量の喀血《かっけつ》をした。血がコップを溢《あふ》れて明子の手の甲を汚した。血は皮膚の脂肪にはじかれて斑《まだ》らに残つた。これで落着くかと彼女は思つた。明子には先《ま》づこの血に満ちたコップをどう処置するかが非常に重要なことに考へられて、ぢつとそれを握りしめてゐた。
しかし第三の発作が起つた。村瀬が胸をのめらせて枕に縋《すが》りついた。明子は突嗟《とっさ》に自分の両手で吐かれる血を受けた。彼女は血だらけになつた両手を村瀬の口に押しつけながら、顔すれすれに近づけてささやいた。涙が冷たく蒼《あお》ざめた頬《ほお》に散つた。
――どうしたの、一体。
今度は比較的量は少なかつたが、それでも両手の窩《あな》をほとんど満《みた》した。それでやつと病人は落着いたやうだつた。彼女は洗面台へ手を洗ひに立つた。水の音を聞くと村瀬はむつくりと半身をもたげた。彼女には手を浄《きよ》めるひまもなかつた。
――何です。どうするの。動いちやいけません。
――あれを、あれを取るんです。
村瀬が歯をくひしばつてやつと言つた。彼の片手は壁の棚に達してゐた。
――そんな事なら私がして上げます。あなたはそつとして居なくちや駄目《だめ》よ。
明子が遮《さえぎ》らうとしたとき、村瀬の手は案外|脆《もろ》くがくりと垂れた。がそれと、棚から一冊の鼠《ねずみ》色の本が頁《ページ》を飜《ひるがえ》してベッドに伏《ふ》さつて落ちたのとは全く同時だつた。村瀬はすばやくその本を掴《つか》んでゐた。
――これなんです。
彼が不気味に顔を曲げて笑はうとした。
――何、それは?
――これに書いてあるんです。それが長い間僕を苦しめてゐたんです。しかし、やつと解つた。やつぱり僕だつたのだ。
明子は伏さつた本の表紙に眼を走らせた。そこに伊曾の名が刷つてあつた。とすれば、それは伊曾の飜訳《ほんやく》で近ごろ出版された或
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